コドモ教問題

働く母親は世間に疎い。27時間テレビフジロックも知らない間に始まり、知らない間に終わっていた。オリンピックも気付けば終わっている予感。
そして世間は夏休みに入っていたのですね、仕事帰り(時短取得中につき17時頃)の地下鉄で親子連れの姿をよく見かけるようになってやっと気付きました。
先日は夕方、地下鉄の階段を降り切ったホームのところで、階段の手すりにぶらさがって口をぽかーんと開けて、微動だにせずに呆けている推定7〜8歳の男児がいて、あんまりにも呆けているので声に出して笑ってしまった。上からお母さんがベビーカーをうっしょうっしょと運んで降りて来てる途中だったんだけど。
お出かけでちょうくたびれたんだろうなあ、って思う反面、そこまで呆けるか? っていうような呆け面を惜しげもなくさらして、人目とかどーでもいい感じで固まってる様子に、あーほんとコドモってばかだなあ、おもしれえなあ、ってニヤニヤしてしまいました。
自分が子供を生んでよかったなと思うことはいろいろあるけど、「コドモの面白さ、かわいさを知れた」っていうのは結構大きいポイントかもしれない。それまで、別に大嫌い! とまでは思ってなかったけど、そんなに好きだとも思えずにいたので。
たぶん、以前は「コドモ」っていう生き物として見ていて、その未熟さにいらっとなってたんだよね。それが自分が赤子を生んだとたん、目の前のコドモがその状態に至るまでに、どれだけいじらしく成長や発達を積み重ねてきたのか、がイメージできるようになっちゃって、大人からの引き算でなく、赤子からの足し算でコドモを見るようになった。そしたらもう、すべからく面白くてたまらず、どんなバカな振る舞いもいとおしくなりました。我ながら現金なもんですよ。
あとね、世間のおとうさん、おかあさんはえらい、って本当に思うようになったなあ。モラルの低下とか多少はあるんだろうけど、でも、みんなこんな世の中でがんばって子供を育ててほんとうにえらいよ。「好きで生んだんだから当然」って理屈もあるけど、そういう選択的な趣味趣向と一緒に扱えるような大変さじゃない…っていうのだって、まあ、生むまでは何もわかってなかったんですよね、わたし。何も考えてなかったもん。
子育ては特別なことじゃないけど、ふつうに大変で、おとうさん、おかあさんたちはふつうにえらい。そう思うようになったら、世の中のいろんなことに対して少し気持ちがやさしくなれた、ような気がします。効率重視、利己的な理屈がまかり通るビジネスライクな社会より、もっとゆるく協調的な社会のほうがうれしいな、ってふつうに思うようになった感じ。
ただ、その反動で気をつけなきゃと思ったのは、反コドモ的なものに対する拒否反応が過剰にならないようにせねば、ってことでして。いわゆる「コドモ教」的なことですよね、入信後、信心を持たない勢力を狂信的に、必要以上に否定してしまいそうで、ときどき自分がこわくなる。
たとえば、復職前のまだ寒い頃、毎日昼前に息子を連れて買い物に向かっていると、同じような感じで犬を連れて散歩している人とすれ違うことが多くてね。行動に制限ができるという意味では赤子も犬も一緒だな…なんて思って見てたら、突然、「同じなら犬とか連れてないで子供を生めばいいじゃない、犬より子供のほうがこんなに面白いのに!」って理屈が自分の中にぽこんと湧いてきて、こええ、コドモ教の洗脳こええ!って、自分で自分にぞっとなったりしました。自戒、ちょう自戒!!
そんなことを考えながらも、今日も電車の中で見る赤子についついべろべろばあをしてしまう毎日です。大抵赤子は無反応で「なにこのオバサン?」的なぽかん顔ですが、そんなことは別に構わんのだ。ハハハ。