ブログを擁護する

というわけで、私は書く。「価値」のために書く。それはけっして「サービス」ではない。自分のために書いている。考えるために書いている。ときには、ここに書いたことを元に、商品化するために少し丁寧にして、あらためてメディアに使うこともある。ネットのブログは、一般に公開することによって、ただのノートや、日記とはあきらかにちがう。「私の価値のため」に書いている。文章を書くことで誰もが、またべつの表現の回路を見つけた。表現はだれでもしたいのだ。自分のことは誰かに伝えたいのだ。ブログはそれをはじめて誰でもできることを発見した。可能性が広がった。私は断固、「ブログ擁護派」である。ものすごい数の人たちがそれをはじめた。またなにか可能性は生まれるだろう。

この宮沢章夫さんのweb日記ではかつて、「ばかがものを言うようになった」という小谷野敦さんの言葉が何度か取り上げられていた。ネットに溢れる「わずかな知識と直感だけで」書かれた素人の言説のひどさに対するフレーズなんだけども、まあ、ちょっと刺激的な言い回しでもあって、ここで言う「ばか」は恐らく、このフレーズに対して見事に過剰反応を示すだろうことは想像に難くない。そういう刺激性を敢えて指向するところが面白いなあ、と思った記憶がある。
わたしがこないだまでやっていたブログの更新を止めたのは、「ばか」になりたくない、という自意識にとっつかまり、身動きが取れなくなってしまったからだ。ただ、実はわたしも「わたしの価値」のためにブログをやっている、という意識を多少持っていた部分もあった。でもそれは、宮沢さんの書いてらっしゃる「私の価値」とはちょっと違っており、ただ普通に暮らしているだけでは得られない評価を、ブログを公開することによって受けていた、という意味合いを持つ。
ブログをやっていることで知り合った方がたくさんいた。ブログを読んで、わたしに会ってみたいと思ってくださる方が何人かいた。ブログをやっていることで、有形無形のたくさんのものを得ることができた。要するに、ブログを公開するということは、書き手であるわたしに何らかの価値を見出してもらえませんか、という一種の「売り込み」としても機能していた訳だ。ブログを気に入ってくれる人はわたしのことを気に入ってくれるに違いない、という乱暴な発想に基づき、私はブログを通して、己の価値のプレゼンテーションを行っていたんだと思う。
わたしは多分、ブログを気に入ってもらって、ちやほやされたかった。褒められたかったし、人気者になりたかった。わたしが昔から見聞きしてきたものを、最近になって面白がるようになった若者たちに対して、優越感を示し、その趣味の先達として尊敬を受けたかった。年齢の分だけは蓄積がある知識や経験を見せびらかせたかった。それがわたしの「誰かに伝えたい自分のこと」だ。
昨今、ブログというメディアで書かれる興行作品のレビューの質が、ちょっと危険なくらいひどいことになっていると思う。感想と批評の区別がつかない人たちが、直感に任せて根拠のない断言を繰り返す。プロフェッショナルが、職業人としての評価と今後の自分のポジションを賭けてつくっている作品を、浅い根拠でのべつまくなしに酷評する。感想として書くなら罪はないものを、気の利いた批評だと錯覚しながら書いてしまう。
そうならないようにだけ意識を集中して、わたしはレビュー的な感想を綴っていたつもりだった。でも、それが成功しているという確証が持てなくなって更新を止めた。
そんなわたしには、ブログを擁護できるだけの根拠が今はない。この世のどこかで生まれているはずの「ブログの隆盛によって生まれた新しい可能性」は、自分からは遠いところにあるように思えてならない。
そして、じゃあどうしてこのブログを再度始めたのか、と言えば、やはり自分の価値を売り込みたい気持ちがあるからなんだろうことを自分でも気づいている。わたしはこういう人間なんです、という自己紹介。名刺代わり。
でも、今のところ、「ブログですごいと思われたい」という方向に振れることは極力避けたいと思ってこのブログを綴っているつもりだ。もし本当に自分をひけらかすためにこのブログを利用するようになったら、多分、わたしはまた過剰なことを書いて、読んでくださっている方の気持ちを揺さぶろうとするだろう。正直、そういうの結構得意だし。
でも、それでは前のブログと何も変わらない。わたしがしたいのはそういうことではなかったはずなんだ。
「素人」がブログをやることの意味を、わたしは今でも考えあぐねている。宮沢さんはブログを擁護すると書いた。わたしはどうだろう。擁護するスタンスに立つことができるんだろうか。
この問いには答えはないのだけども、この問いを考えることを放棄してしまったら、わたしは本当にブログから手を引くべきなんだと思う。ネットに文章を公開してゆく間は、この問いを考え続けなければならない。恐らく、それが唯一、クリーンな意味での「わたしの価値」に繋がるんだろう。