劇団、本谷有紀子「遭難、」

観てきた。全然気付いてなかったけど、楽前だったんだな。だからどうっていうことは全然ないんだろうけども、カメラが5台くらい入っていて、一体何事かと思った。しかも全部同じらへんの位置に配置されていた。一体?
本谷さんの芝居を観るのは映像を含めて初めてで、なるほど、という感じ。今回はかなり短絡的な、ベタな感想を書くので、軽く畳んでおくよ。
一言で言えば、90年代の松尾作品のモチーフを、超個人的な規模で煮詰めたような芝居だった。
あんまり今はそういう書き方とかされているのを見かけないけど、わたしが最初に本谷さんの名前を見聞きしたタイミングでは、まさに「松尾フォロワーの最右翼」みたいな感じで語られることが多かったように思う。しかも確か、ご本人も大真面目にそれを肯定していた時期があったような。正直、当時「松尾ファン」を自称するタイプっていうのは自意識過剰で精神的露出狂の女の子が多くて、メ/ン/ヘ/ル*1自慢みたいな傾向もあって、勿論それは松尾さんが持っている資質を反映してのことだった訳だからいいとも悪いとも思わなかったんだけど、ただ、そういう傾向の延長上で芝居を始めた人たちに対して、わたしは何の関心も抱けずに随分長い時間をすごした。毛皮族を観ていないのも同じような理由、なんだろうな、深く考えたことなかったけども。
今日、初めて観た本谷さんの芝居は、その頃の松尾さんの作品世界を構成していた要素のいくつかをぼんやり思い出させるものだった。具体的に挙げるなら…うまくいえないけど、変な形で縛り合う人間関係みたいなところ? 「ドライブインカリフォルニア」で、借金をすることで自分の居場所を作る、みたいな倒錯があったと思うんだけど、あれに近い感じ。「あなたのせいで自殺を試みた」という形で相手を縛る、みたいな。あとは、普通に考えたら何のトクにもならないのに、ものすごいエネルギーで他人の弱みを握ろうとする里見のパラノイックさとかか。
しかしながら、あの頃の松尾さんの芝居と、この本谷さんの芝居の間とを比べたとき、一番大きな相違点としては、(狂っている人が出てくるのは共通として、)「何がその人を狂わせているのか」というポイントが挙げられるじゃないかなあと思う。松尾さんが書く芝居には、宇宙観…というか、「世界の仕組みを知りたい」という希求みたいなものがあって、人々は「運命」という名前の宇宙*2に動かされるようにして、気がつけば過酷な方向に押し流されて走り出している、というものが多かった。しかしながら、今日の芝居はとにかく「わたし」「わたし」っていう感じの作品世界で…里見のキャラが「自分大好き」っていうフレーズに集約されているざっくり感が一通りをあらわしているけど、なんかもう、「自分」そのものが宇宙になっちゃってるんだよね。自分ブラックホール、みたいな。そこにすべてを帰着している分、妙な閉塞感と濃度があって、しかし、奥行きが全然ない。そういう独特の「宇宙」。
例えば、せっかく教育の現場を舞台にしているのに、「教育者としての本音と建前」みたいな面白ポイントは全然活用せずに、単純に「人間としての本音と建前」に終始してたところ。普通に勿体ないなーと思ったのは、まあ、昔付き合っていた人が「教育の現場」というコント芝居みたいなのをやっていたことがあって、そこでは教師という人種の持つ特殊性を活かした芝居を作っていて、ものすごく面白かったから、そういう「教師として」を使わないで、単純に「いじめ」「相談」「自殺」という要素を詰め込めるから、という理由で学校の設定にしているのも、なんというか、割と短絡的な感じに思わないでもなかったかも。
あと、里見のキチガイっぷり以外、何も掘り下げようとしていないところがものすごかった。あ、キチガイ次点の母親も半堀りくらいだったかな。だからって掘り下げる気がない、そんなことに意味はない、と思っているっていうのともまた違う感じで。男性教員なんて、もっとうんとずっと面白く出来そうなのに、と思った。あと、空間の使い方や音や照明がものすごく単調で、時間の経過がべたーっとフラットに見えてしまっていて、1回「はい、翌朝」みたいなシーンがあったけど、照明だけ変に朝日を演出しているだけで、何故か登場人物たちは前日と同じ衣装で出勤してくるし…そういう、記号的に衣装を固定にしてるのかなと思ったら、急に回想シーンが挿入されるところだけ衣装の扱いが違っていたし。何というか、人間の言葉、台詞以外の、総合的な意味での演出が割と大雑把というか、ざっくりしていた印象。
この芝居で描かれていること、つまり、「自分」「自分」でいっぱいになっている人間の気持ちの悪さは相当に好みというか、慣れ親しんだ感じのするモチーフに思えたんだけど、今イチ小粒な感じがしたのは、ミニマムな舞台要素(舞台領域の狭さ、セット≒場面の限定性、登場人物の少なさ、等)のせいだったのか、上述の「自分」帰着の仕組みに由来しているのか。そもそも、本谷さんの芝居っていっつもこんな感じなんだろうか、それとも、今回はこういうミニマムなものを、という路線でこの偏った濃さになったんだろうか。そのへん、次作を観てこの作家に対する態度が確定しそうな気がした。現状としては、そんな保留っぽい感想ね。正直、この1本だけだと、面白かったけど、すごくよいとは思えなかった。会話に重点を置きすぎていてしんどい、っていうのもあったよね、後半は観てるほうもへとへとの台詞応酬…観客は皆が皆そんなに集中できる訳じゃない…。
あ、役者では吉本菜穂子さんが素晴らしかったです。声も顔も姿勢もいい。舞台の上で立つ姿勢が気になる、というのは、何かそれこそ宮沢松尾ラインの影響下にあることを己で告白しているような感じだけど、彼女の立ち姿の力の抜けた美しさはちょっとすごかった。役柄もトクだったんだろうけどね。本谷さんの芝居には大抵彼女が出演しているのだということを、帰宅後ググって知ったので、彼女を見るためにも、もう一作は確実に観よう。うん。

*1:キーワードリンク避け。

*2:時として隕石とか赤ちゃんとかに形を変えて物理的なものとして物語に登場したりする。キレイなんかは「カミ」だったしね。