相談

恋人とはよく相談をする。次の週末の予定のこと、年末のイベントのこと、明日の夕食のメニューのこと。お互いに対して何か嫌だと思ったこと、してほしくないと思ったことがあったときにも相談する。どうして嫌だと思ったのかを説明して、どうしてそうしたのかを聞いて、今後はどちらがどうしたら回避できるのか、知恵を出し合う。
わたしは何でも、感情のことも理屈で片付ける嫌いがあって、なぜそう思ったのか、なぜそうしたのか、ということをすぐに掘り下げたくなってしまう。いいとか悪いとかいう以前に、まず「なぜ」なのかを考える。その理由が、例えば自分/相手の無神経さだったら、当然改める努力をするべきだと思うし、個人の譲れないこだわりによるものなら、相手が譲歩する努力をするべきだと思う。誰しも譲れない点はある。そこを侵さずに一緒にいたいし、いてほしいと思う。
理屈っぽくて何でも言葉で把握しようとする。「なぜ」とすぐに訊く。色々なことをあいまいにして逃げの余地を確保したい人にとっては相当うっとおしいはずで、自覚があるから友達については、追求は極力抑えようと心がけている。仕事でも、場合や相手によって。でも、すきな人に対してだけは抑えたくない。抑えなきゃ一緒にいられない人に対しては、限界なんてすぐ来るって身に沁みているから。
恋人は、付き合い始めるときにわたしとたくさん話をしたがってくれた。今でもお互いに本当によく喋る。お互いに言葉が多いタイプだから当たり前なのかもしれないけど、言葉にだっていろいろあって、ただの言葉と、ちゃんと返してくれている言葉とは全然違ってこちらに届くものだ。相手の言葉を正面から受け取って、それに対する言葉を返す。基本的なことのようだけど、わたしが望む密度で返してくれる人は世間に少なくて、それは能力や性格じゃなく、それだけ真剣にわたしの言葉を聞いて、返そうとしてくれる人が少ないだけなんだと最近思うようになった。
受け取ってくれる人のない言葉は行き先を失って、本来の意味や目的からじりじりずれてゆく。だからわたしは、自分がきちんと関係している人に対して言葉を投げかけるべきなんだと思った。それでブログの更新を止めて、恋人と付き合うようになった。どっちが先かは微妙なところ。多分、両方のチョイスがお互いに影響し合っていたんだと思うのだけど。
今、久しぶりにブログを更新して思うことは、ここに綴る言葉はやっぱり、恋人と交わす言葉とはまったく違うものだということだ。わたしはこれを読んでいる人たちに期待なんかしていない。それで構わないのだと思えたから、書きたければ書いてもいいんだと気付けたのかもしれない。ただし、本当に誰にも受け取ってもらえなくても構わないと思って書かなければダメだ。ブログで誰かに自分を分かってほしいだなんて、そんな色気を持つことはあまりにもはしたない。
今晩もまた、食後にはほうじ茶とコーヒーのどちらを入れるか、恋人と相談をするだろう。わたしには、わたしの言葉と感情とを理解しようと耳や気持ちを傾けてくれる人がいる。相談に応じようとしてくれる人がいる。その実感の大きさが、いろいろなことを今のわたしに許しているんだと思う。