メカニズム

大人計画の「まとまったお金の唄」を今日観たら、1回目に観たときには聞き取れなかった台詞がすっと耳に入って来た。何でかと言うと多分、間に戯曲を読んだからだ。

わたしはこれまで、舞台を観てから戯曲を読んで比べたりする、ということを率先してはやって来ていなくて、たまにやっても、舞台を観てから結構間が空いてから戯曲を読むようなことが大半だった。でも今回、1回目に観た日に劇場で先行販売していた戯曲を買って、帰りの電車の中から読み始めて、読み終わった翌日にまた観たので、細かいところを色々と比較できた。舞台を思い出しながら読んで、そこで気付いたことを踏まえながらまた観る、みたいなね。実に面白かった。
でも、こういう見方をすると、芝居というのはメカニズムなんだなあ、とつくづく思う。音響、照明、映像に役者の動きや台詞。きっちり計算されている部分と、自由度がある部分が渾然一体となっていて、こちら側からすれば自然現象のようにそこに在るものなんだけど、その裏にはものすごい熱量の計算や準備(役者と演出家とスタッフそれぞれの)があるんだということ。役者の姿にどれだけ気持ちが揺さぶられても、その口から発せられる言葉は作家が書き与えたものなんだということ。
自然現象として楽しむだけのほうが健全な観客の姿なのかも、とも思いつつ、バックステージ好きという悪趣味な傾向を持つわたしはついつい、戯曲執筆から公演までの間に演出家が変更した台詞だとか、明らかにアドリブが定着したらしき余計/過剰な部分(ひどい)とか、戯曲には書き込まれていないびっくりするような動きとかを拾い出して、へーとかほーとか思ってしまった。
ま、大人計画の舞台については、できればあまり作家/演出家の意図とか解釈とかしないでおきたいと思ってはいて。解釈せずに、ただ観て、10年観続けて来てるので。そういう観方だったから、10年観続けて来られている気がするので。大体、松尾さんの書くものを解釈したり、どう好きなのかを語る人は世の中にアホほどたくさんいるから、わたしまでするこたあない、と思いつつ、でも、解釈を試みたり愛を語ったりしたくなるのが松尾作品の特徴でもあって、気持ちの距離を取るにはちょっと努力が必要な感じもある。
もっと正直に言うのなら、今のわたしは宮藤さんについてはタガが外れているから、魂を含む宮藤官九郎 works 全般に対してまともに気持ちの距離を保てる気がしない。だけど松尾 works に対しては、もちっとクールでありたいと思ってる。何故かと言うと、松尾さんは構われたがりさんで、宮藤さんは放っておいてほしがりさんだから。宮藤さんはどれだけ思い入れても、基本的にこちら側は突き放してるところがあるから気が楽なんだけど、松尾さんは「これは自分の物語だ」と思わせて動揺を誘うのが上手いし、それに乗っかってしまうと結構疲れるところが*1
…や、本公演何度も観るくせに「クールでありたい」とか、バカじゃないのか? って話かもしれないけど、あくまで視点の問題。あんまり過剰に思い入れると、役者単体とか台詞一言とかにつかまって、全体のメカニズムから外れたところに目が行って、「大人計画本公演」として観られなくなりそうで怖いって話。だからこそ、それだけ魅力のあるパーツが揃っている劇団であることに改めて気付かされ、わたしは各役者それぞれへの愛着よりも、松尾さんがつくった「大人計画」への愛着のほうが強い人間なんだなあ、と再認識もするのだけれども。
そもそも、劇団という存在自体がひとつのメカニズムでもあるから、本公演は、そのメカニズムの現状を確認する場なんだと思う。わたしにとって。このメカニズムなくして、阿部さん宮藤さんを初めとする綺羅星さんたちの輝きもありえない訳だから、お外で狂ったように走り廻ってる彼らを楽しめば楽しむだけ、彼らが帰るべきマザーシップの姿を見届けておきたい気持ちになるんだろう*2
わたしは松尾さんのファンでもあるし、阿部さんのファンでも宮藤さんのファンでもあるけど、大前提として「大人計画」というメカニズムが好きなんだろうな。こういう気持ちにさせてくれる劇団は他にないので、同じ時代で生で観られて幸せだなあと思う。松尾さんと長坂さん*3には健康に気をつけて長生きしてほしいもんだよ。本当に。

*1:そして、それがたまらないという人がいるのもすごーくよく分かる。無理もないと思う。

*2:そういう意味ではフェスも本当に楽しみにしてる。チケット取れるかどうかは別問題だけどね…(言葉少。

*3:有限会社大人計画の社長さん。「大人計画社長日記」の著者。