第51回岸田國士戯曲賞選評 公開

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やべーちょう面白い。何がって、審査委員の先生方そのものが。
実際のところ、俎上に上がっている作品の中で公演を観たのは一作だけなのだけど、こんな面白い人たちの選評が読めるなら、候補作読まなくてもいっそいいのかもよ、って思っちゃった。今年は選評の当たり年と言っていいだろう、こんな面白い選評滅多に読めないと思う。劇作家とか目指してる人じゃなくて幸いだったよ、こんな選評より面白い戯曲書かなきゃいけないのか、なんつう絶望を感じないで済むもんねえ。
岩松さんは毎年、皆が触れている作品の疵について、ある部分でいちばんシビアな表現を選択しているように見えるんだけど、それは意図的に受け取り手の視点に立つ習慣の賜物のように思える。岩松さんという作家の、客観性への執着が見えてなんかにやっとしてしまう感じ。でもそれを語る際の言葉遣いには個人的な目線を感じさせるものがあって、そのバランスが面白いなあと思う。「言葉からこぼれおちるものを演劇がすくっていく」なんて、恐ろしいほどのロマンチシズムじゃないですか。デレデレしちゃう。
鴻上さんは、本谷さんの上演成果を大変高く評価してらっしゃるのが面白い。っていうか、この単語を読んで最初、動員数とかを表しているのかと思った。だってあの舞台、わたしにはそんなに素晴らしくなかったからさー。その素晴らしさを演出と役者の力であるとして、戯曲の力じゃないとするあたりも面白いなあと思った。演出そんなによかったかに…? 脚本の限界を超えていたようにわたしには思えないので、わあ、鴻上さんとはわたし、価値観が随分と違うらしいぞ! とにやけた。最後のほうで「受賞作なし」を惜しむ言葉が綴られている段ともなれば、そんなに惜しいと思うなら、あげればよかったじゃないの、なんて気持ちにさせられる。これがまた、以降の選評への絶妙なブリッジになってしまうところがすごいのだ。くくく。
そして坂手さん。タイトルからして「受賞作を出せなくて残念だ」だもの。笑う。この人は、作品を挙げている順番が他の選者と違っていて、本谷さんを一番後ろに回している。「露悪的なコントとして都合よくまとめている」って表現、ちょっとドキッとさせられるけど、それくらい的確だと思うんだよなあ。しかもおっかないことにこのコントにはユーモアがないというね…わたしの「遭難、」評は「笑えない」の一言に尽きるので、都合のよいコント、っていう表現には膝を打つ思いだった。そんなコントは笑えっこないでしょ。あとさらーっと前田さんの作品で「二つの岸田戯曲賞」っていうフレーズを出していて、この時点で、舞台を観ていないわたしには「?」となるのだが、これがまた先へと導くリードとなる。そして最後まで読むとようやく、どうやら今回の「受賞作なし」というのは、自身が座付きを務める劇団の新作の執筆が遅れ、初日延期という漫画みたいな事態を繰り返していた時期の選考会だったために、審査委員長でありながら選考会を欠席した井上ひさしの強い意向を反映してのことだったらしい、ということが分かる。何この謎解き感。「記しておかねばなるまい」て、記さずに匂わせしかしなかった鴻上さんの立場はどーなるというのか。くくく、面白い、面白すぎるよ坂手さん。
永井さんは真面目に本谷作品の粗を挙げていて、こんなことをちゃんと言ってくれる選者がいるなんて、本谷さんは幸せだよねえって思う。「イジメとトラウマの連鎖という今日的な題材を扱いながら、それを生み出す現実の制度そのものへの無関心はなぜなのか」って書いてらっしゃる点、わたしも観劇直後に感じたことで、背景となる学校の仕組みの描き込みが極端に甘いんだ、この作品。教育の現場って言うのは、ちょっと取材すれば絶対に面白い土壌のはずじゃないですか。それこそトラウマ、この作品が固執しているようなファンタジックなまでに個人的なトラウマではなく、社会と結びついた形でのより絶望的なトラウマが描けるに違いないのに、本谷さんはただの書割としてしか「学校」という装置を捉えてない。もうこの人、個人(っていうかもっというと「わたし」)のことしかホントに興味ないんだな…というそのびっくり感ね。それを永井さんの選評にも感じて、そうそう、そうなの…! っていううずうずした感じを味わった。あと、ここで初めて「終わらせ方」というキーワードが登場し、次の選評へとバトンを継ぐ形となるのが本当に面白い。しりとり?
そして野田さんである。この人は「分かりやすい」の神様みたいな人だなあ。坂手さんが(多分わざと)不親切に触れていた、前田さんの作品の「二つの岸田賞」についてさらりと、こっちに分かる言葉で説明しちゃったりして、なんとなく、らしさを感じる。あと、「芝居を終わらせるために終わらせていない」みたいに、「終わらせ方」についての明確な表現をもこの人はさらってゆく。多分、どちらも選考会で語られたことなんだと思うのですが、その前提を知らない読者(選評のね)に対して、意味を届けようとする力の強さは野田さんが一番強いように思った。勿論、そこまで届けることに意味があるのか、ということはまた別の問題。野田さんは野田さんで徹底していることだよ、というむやみな面白さを満喫したということだけが、今ここでわたしの書きたいことだ。そして「どこかで見たことのある作品で、そこに新鮮味を感じることができなかった」と書いてらっしゃるところに頷いたのは、野田さんが可愛がっている松尾スズキさんの昔の舞台を、「遭難、」鑑賞直後にうんざりするくらい鮮明に思い出していたわたしだからなのだった。
ほんでもって宮沢さん。この選評を読んでわたしは、なんか、文章のトーンという点において、相当にこの人の影響を受けているのだなあ自分、とまったく関係のない感慨に捉われた。宮沢さんてば論じてるんだもの。総括?っていうくらいの論じっぷりだ。極論の提示とその後の「けれど」に続く微調整の現実性、明確に仮定を挙げて論証する手癖がなんか、わたしの身体にしみついているリズムとすごく近い。畏れ多いけど、あー、そうだこれだ、って思う。そして特筆すべきなのは、宮沢さんだけはなんか、最後のほうに選者としての立場が混乱してきてるように見えるところか。「潮流や傾向から遠く隔たった場所から、また異なる種類の刺激的な作品がきっと登場する」って書いてらっさいますが、宮沢さんがラジカルガジベリビンバシステムを立ち上げる際の旗揚げ公演に冠したタイトルが「ここから彼方へ」だった訳で。この人、明らかに、他人の戯曲を審査しながら、自分でそこへ向かうつもりを高めてますよね。大人げないわあ。こんな大人げない宮沢さんが心底格好いいと思う。
そんな訳で、何やら選評の感想のテイを取ったアンチ本谷有希子節みたくなってますが、別にそういうことではなく、こんだけ賛否両論みたいなのを引っ張り出せる人っていうのは稀有なんだろうし、やっぱり才能あるんだねえ、って思ったということです。わたしは彼女の舞台は「遭難、」1本しか観てなくて、この作品にはなんか、女子の幼稚な「わたし」欲が煮解けたみたいな未成熟に鼻白んだ部分が大きかったし、こういうところは、この先ならいざ知らず、これまでの舞台でも共通していたんだろうなあ、と思うと、その「わたし」一辺倒の気持ち悪さだけが売りならあんま魅力感じないわあ…と思っていたんだけど、こんだけ皆が取り沙汰するということは、きっと彼女の作品にも見るべきものはあるのだろうと思う。去年までは、ノミネートこそされまくっていたけど、こんなに真面目には誰も触れてなかったもんね。今後も何本か観てみて、その上で態度を決めたいものである。
いずれにしても、審査員のせんせえがたがそれぞれ、持ち芸をチラチラと披露しつつも、各々の偏りも露呈していて、素晴らしく面白い選評だった。井上ひさしさんがいい仕事したお陰なんじゃないだろうか。こう言っちゃなんだけど、賞も人間が決めてるもんだからね。タイミングとかムードとか審査員の顔ぶれや相性、そういうのの総合で決まるものだから。審査員がこれだけ魅力ある作家の集合体である以上、その選考過程自体がひとつのエンターテイメントになりうると思うし、それが今年はなんか、「おいおい」って雰囲気が一部から漏れてる感じで、普段のキレイなバランスが崩れて、生身っぽい言葉がちょいちょい零れているところにどえらい魅力を感じましたよ。審査される作家のほうはたまんないだろうけど、傍観者は荒れた選のほうが面白いに決まっている。ううん、堪能した。