君の瞳の信じるように

うざいので畳みますヨ。
仕事をしながらいろいろ考えていたのだけど、上のエントリで「許せない」とか書いてはみたものの、わたしは何を信じていたのか、といえば、岡村靖幸というメディアの向こう側にいる男性のことではなくて、彼のつくるうたを信じていたんだと思う。去年夏からの一連の「復活」のアクティビティについて、わたしは全面的に盲目的に信じて、受け入れて、疑いを一切持たずにいた。それはなんでかっていったら、復帰作の音とメロディと言葉とが神々しいほどに強くて美しくて、むちゃくちゃやさしかったから。だからわたしは「岡村ちゃんが帰って来たこと」を信じた。後悔はしていない。
いつでも、メディアの向こうにいる「つくり手」を信じるかどうか、みたいな局面に立つたびにいつでも思うのだけれども、わたしはやっぱり、話したこともないあっち側の人の、その人そのもののことを信用することはできないです。人間として、とか、そんな大仰なことではなくて、例えばうたの詩とかドラマや舞台や映画での台詞とか、インタビューでの言葉とか公式サイトでのメッセージとか、そういう分かりやすい「ことば」が、その人のありようと必ずしも一致しているかどうかなんて、こっちには分かりようがないということ。大好きなつくり手がきれいごとを言っているとき、それを真に受けるのが正しいのかどうか、いつでも迷っているし、迷っていることが正常なことだと思っている。
だけど、作品の力だけが、この迷いを超えさせてくれるものなんだと思ってもいて、すごいライブや舞台を観た後とか、とんでもない作品を読んだり聴いたり観たりした後とか、そういうときにだけ、騙されてるのかもしれないけど、信じよう、信じていい、騙されたとしても信じる価値がある、って思うことができる。そのときわたしが信じようとしているものは、その作品をつくった人そのものではなくて、その作品に宿る力だ。人のことは信じられないけど、作品のことは信じられる。何故なら、その作品は受け取ったときにわたしの中に根付いて、そこで新しい価値を生むものだから。そこで生まれた価値は、つくり手本人とは切り離されて、新しい視点としてわたしの人生に追加される。
そういう経験をもたらす作品を、頻繁につくってくれる人がいたら、それはそのつくり手への信頼に繋がるかもしれないけれども、でも、それはそのつくり手の人間性への信頼ということではないはずで。このへんを混乱してしまうと、やっぱりつらいことになるんだと思う。受け取り手も、つくり手も。混乱しがちなんだけどね、受け取り手も、つくり手も。
去年の復活ライブのとき、岡村ちゃんは大丈夫なようにわたしには見えた。「岡村ちゃん」として人前に立つことで背負う重圧とか苦悩とかを、いやってほど承知して、それでもそこにちゃんと立っているように見えたから。勿論、わたしが勝手にそう思っただけだ。実際に彼がどう考えていたのかなんてわたしにはわからないし、わかる必要もない。でも、わたしはあのとき、岡村ちゃんの新譜で胸いっぱいに期待を膨らませた気持ち、その気持ちを、ぺしゃんと潰されたりせずにライブ会場から帰れたことが嬉しくて、ただ嬉しくて、すごくしあわせだった。
この後、5年10年経って、岡村ちゃんがまた戻って来たとしても、ああいう気持ちでライブ会場に足を運べるのか、って言ったら正直無理だと思う。無邪気な期待を繰り返すにはあれだ、岡村ファンは年を取りすぎていて、彼のやった「3回目」の重さは、中年ファンたちだからこそ救いようがないと捉えざるを得ないというか…要するに、若気の至りじゃないからその罪深さが際立つし、ファンもその罪深さをよく知ってしまってるっていうことなんだけど。
でも、そうやって「岡村ちゃん」に失望したことについて、「騙された」とかは言いたくない。なんでかっていったら、わたしが信じたのは彼のひととなりではなくて、彼のうただったから。彼のうたが強く、輝いていたのはほんとうのことだったから。
わたしは今でも、あのうたを大事に思うよ。もう二度と岡村ちゃんの新作を聴くことができなかったとしたって、おばあちゃんになるまであのうたを聴き続けると思う。わたしは岡村ちゃんの書いたうたが好きだった。だから岡村ちゃんが好きだった。それだけのことなんだと思う。

はっきりもっと勇敢になって

はっきりもっと勇敢になって

あとさ、余計なお世話だけど、つくり手のことを過剰に信用なんてしちゃいけないと思う。別にみんな薬物やってて裏切られるよ、とか、そういうことじゃなくて。ネットの普及とかでつくり手のことを身近に感じたりしてるのかもしれないけど、わたしたち、今自分の隣に毎日いる人の気持だってちゃんと理解できてるか怪しくない? なのにメディアの向こう側の人のことを、作品抜きで、人そのもののことを理解できてるなんて思うのっておかしくない? いわんや、理解したい、だなんて。そんな危険なこと考えないほうがいいんじゃないの?
理解できない、理解したくない人のつくったものであっても、その作品が信用できるならそれでいいんだと思う。でも、作品とつくり手を混同するのだけはやめたほうがいい。信用できる作品をつくる人だからって、その人が作品以外に語っていることのすべてを鵜呑みにしたりするのはやめたほうがいい。どんなご立派に見える言葉だとしたって絶対にだ。絶対に、絶対にだ。
…と、岡村ちゃんのことを書いてる振りして、わたしはもっとほかのつくり手のことを書いている。もはや岡村ちゃんはわたしにとって、こうやって包括的な話題に集約できてしまうような存在になっちゃったってことだ。抽象っつかね。今はただ、それが寂しい。ホントそれだけです。