葉桜の季節に君を想うということ/歌野晶午

葉桜の季節に君を想うということ (文春文庫)

葉桜の季節に君を想うということ (文春文庫)

文庫になったときに買おうかどうしようか迷ってやめていて、先日図書館で文庫を見つけたので借りてみた。そしたら、実にうんこな一冊だったので本当に驚き、あのとき買わなくてよかったことだよ…と切実に想った。いや、思った。
まず、文章がもたもたしていてうっとおしいことこの上ない。でもそのもたつき、なんでここでそんな細部を語らなきゃならないのか? っていうのがいちいち、最後に明らかになる大仕掛けとの辻褄あわせで付け足し続けた言い訳みたいなことだった。それが積もり積もって作品全体のトーンが愚鈍な感じになっている、と最後まで読んでわかったとき、わあ、うんこだなあ! と心底呆れてしまったよ。志がないにもほどがある。いや、気色悪い方向(仕掛けでびっくりさせてやる☆」というような)の志がぎらぎらしていて、そこに食傷したということかもしれない。
というか、「大仕掛け」以前にこの小説に出てくる人たちが全然魅力的じゃなくて、好きになれる人物はひとりもいなかった。どいつもこいつも、行動原理がでたらめで「小説のため」の行動としか思えないことを次々してゆく。薄っぺらくて真実味がなく、行き当たりばったりでいんちくくさい人ばかりがぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ、どーでもいいようなことばかりしていて、読んでて何だかあほらしい気持ちになる。ハードボイルドを気取ってるつもりなんだろうけど、中身すっかすかじゃないか。むかむかしながらもすごい勢いで読めたのは、描写が全部即物的でつるっつるしていて、浅くて適当だからなんだろう。気持ちに留まる文章じゃないから、引っかかりなくするする読めてしまう。お陰で読んだはずのことが全然残らず、最後の「大仕掛け」であらまびっくり、っていうのが倍増する、みたいな感じだった。最低な種類のマッチポンプ
その「大仕掛け」について、ミステリーとしての最低限の要素はクリアしている、ということはわかる。でもそれだけじゃないかなあ、この作品をがんばって評価しようとしたときに評価できるところって。その「大仕掛け」だって、ミステリとしては別に目新しいものでもなんでもなく、「信頼できない語り手」の手法が用いられた作品を読んだことがある人なら、別にそんなにびっくりしないと思うし、そもそも読者を「ええ、嘘ぉ!」とびっくりさせるためだけの小説なんて下品じゃないかと思うんですよね。この作品は、本当に「それだけ」だったのでものすごくがっかりした。読んでいて、ああいいなあ、と溜息が出るような気合の入った描写とか、一文もないし。「小説」としての質が著しく低くて、何でこんなのがそんなに評判よかったのか、最後までまったく納得できないまま読了し、「大仕掛け」の辻褄あわせを確認するために読み返そう、という気も起きなかった。うーん。
…というようなことを書こうと思ってネットで確認してみたらこの本、「このミステリがすごい」の2004年度の第一位なんですってね…! うわあ、すごいわたし、審美眼なし! みたいな! でもホントにへたくそな作品だなーっと思ったんだけど。最後にうまくびっくりさせたから評価された、ってことなんだとしたら、つまらない理由で一位になっちゃう昨今なのだなあと思った。しかも大した仕掛けじゃないのに…!(しつこいよ!)
にしてもこういう、出版社主催とかではない、識者の口コミランキング的なものとわたしの評価は毎々、こうも食い違うか、というくらいにズレがあるなあ、と改めて。それがいいとも悪いとも思わないけど、世の中の傾向と異なる好みを持っているということは、好みの新しい本に出会える確率が年々低くなるということかもしれない。そうしたら図書館に行けばいいだけなんだろうけど、正直ちょっと寂しいことです。