時をかける少女

先週末、テレビで放送していたのを観た。確か去年も放送していて、一緒に観たいなあと言っていたのに、夫(当時は恋人だった)の仕事が忙しくて全然そういうタイミングじゃなかったりした…ような記憶が。今年はごはんを食べながら一緒に観られて満足。
わたしの世代だと、時かけ原田知世な訳なんですけど、物語が全然違ったので大層びっくり。化学実験室とか、ところどころ重なるところはあったんだけどな…あれはどっちが原作に忠実なのかなー、と Wikipedia に訊いたところ、アニメの主人公・真琴のおばさんが、実写の原田知世の成長した姿、とゆー意味合いだったんですね。わー、それは気付かなかった!
タイムリープの方法自体が実写版とアニメ版では違っていて、アニメ版ではタイムリープの能力を「チャージ」するという考え方になっているところ、腕にあと何回タイムリープが可能なのかのカウントダウンが表示されるところ…など、尾道を舞台に不思議な空気感の中、タイムリープについてのいろいろを、思春期の女の子特有の直感的な方法で把握してゆく原田知世のひたむきさがとにかく印象的だったので、記憶に残る実写版との違いが気になって、どうなっているのかな? と首を捻りながら観てしまった。
アニメ版は確かに現代的というか、最近の高校生っぽい登場人物たちの軽さ…というと言葉が悪いかな、軽やかさ? が目に付いた。実写の原田知世は寡黙で、じっくり考えた上での直情が非常に鮮やかだったように思う。でも、その不思議な覚悟の深さというか、そういう雰囲気はアニメ版の「魔女おばさん」には引き継がれていたように思うので、時代云々ではなく、そういうキャラクターを描こうとして、アニメ版の真琴になった、っていうことなんでしょうね。
実写版では最後、主人公の記憶を消しながら自分の時代に帰ってゆく尾美としのりが、なんらかの方法でもう一度彼女の前に姿をあらわす、と約束していて、遠のく意識の中でそれを聞いた原田知世は、記憶は亡くしていながらも「誰か」を待ち続けている…そんな彼女の目の前にひとりの男性が、と、そういうシーンで終わっていたんじゃなかったかと記憶しているのだけど、アニメ版でも千昭は最後、「未来で待ってる」という言葉を残して去ってゆき、真琴は「うん、すぐ行く。走って行く」と返して2人は別れていた。重なるといえば重なるシーンで、実写のほうを知っているからこそ、アニメのほうの2人の最後の会話は実際に邂逅することを明示しているように思えて、観ていたときはちょっと納得したんだけど、よく考えてみると、実写版では未来人である尾美が「姿をあらわす」ほうで、現代人の原田知世がそれを「待つ」ほうだったのに対して、アニメ版では逆になっているんだなあ、それは無理なんじゃ…と思った。千昭が戻って来てあげない限り、真琴は自力では未来には行けないよね…だとすれば、あの会話は「もうあえない」ということを踏まえた別れの会話だったのかなあ、という風に思い至り、急に寂しい気持ちになってしょんぼりしてしまったよ。
勿論、真琴が見つけた「(将来の進路として)やりたいこと」はタイムリープする方法を発見すること、なんだろうけど、いかに楽天家の真琴でも、「すぐ行く」と即答するのはちょっとねえ。…ああでも、だったら千昭の言葉は「お前が自力で未来に来いよ、それを待ってる」という意味だったのかなあ。うう、さすがにそれは…ハードル高すぎないでしょうか…。でも実写とアニメを比較すると、こういう「男の子が女の子に求めるもの」についての時代のムードの差が出ている、と言うこともできるかもしれない。取ってつけた結論で申し訳ないが、そんなことも思った。
総じて、さわやかだけど、さわやかなだけじゃない、丁寧な映画だったと思う。きれいごとばかりじゃなく、消火器投げる男の子のキャラクターの危うさはとても現代的だったし。真面目に作られたいい映画でした。