「女教師は二度抱かれた」/シアターコクーン(2008.08.23 夜)

最初に取ったチケットと同日のイベント(WORLD HAPPINESS)のチケットを取ってしまい、慌てて交換先を探してみたら、本当に交換してくださる方がいた! という偶然によってこんな日程深くなってから観て来た。3時間半。2階席で細部は観えなかったけど、むしろ俯瞰できた感じがあって堪能しました。
作・演出家が演出家を主人公にした作品を書く、という選択の先には当然、観客の「この主人公はどの程度まで、この作品を書いた作・演出家本人の投影だろうか」というよこしまな視線が想像される訳で、その想像を、ミスリードまで含めて考慮して逆手に取って、計算づくで作品を描くということ。作家というのは皆、そういういやらしい手段として、作家や演出家を描くものなのかとわたしはずっと、そう思い込んでいた。でも、宮沢章夫さんの「鴇」のプレ公演のポストトークで、作中に「演出家」を登場させた意図として、そういった作為があったのかを質問し、そこまで考えてない、というようなニュアンスの返事をもらって、そうか、そういう企みを疑うようになったのは、小林賢太郎に対する警戒心のせいか、と思い至ったことがあった。
松尾さんは既に、「ニンゲン御破算」の時点で描きたいものもないのに作家となってしまった人間の苦悩を描いていたし、宮藤さんの「ウーマンリブ先生」では「書けなくなった」と言われたくないがためだけに無理して書き続ける作家のうつろさを演じていた。で、今、もっと具体的に、小劇場界の鬼才と呼ばれ、歌舞伎界の異端児の目に留まり、才能を買われて大きなお金の動くプロジェクトに招聘され、いろんなものを明け渡してゆかなきゃならなくなった演出家…を主人公に据えた作品を、松尾さんは、作った。
いいとか悪いとかの判断は別にして、どー考えてもこれは松尾さんが、自分の身に起こったことを愚直に噛み砕いた要素を盛り込んだ作品だ。中村勘三郎に見初められて、シアターコクーンのプロデュースでぶち上げた「ニンゲン御破算」は、いろんなところで無理を重ねたバランスのおかしな芝居で、そこがあの作品の魅力でもあったのだけれども、毎月、キャスティングされれば25日間は昼夜舞台に立っている歌舞伎役者が主役であるために稽古が真夜中に行われたりだとか、中村座コクーン歌舞伎でお馴染みの、小屋の特性とも言える「水」を使うための過剰な演出で役者の身体が冷え、水びたしの床で滑り、立ち回り中に転倒して負傷する役者が続出しただとか、そういう話はあとからいろいろと漏れ聞いた。当時はそこまで細かいことは当然知らずに客席にいたけれど、わたしはなんだか、松尾さん、大人計画やめる気なのでは…と嫌な予感でぐるぐるしていた。作るものを観ていても書くものを読んでいても、なんだかいやな胸騒ぎがしてつらかった。
こっちが勝手につらがっていたあの時期、いったいどれだけたくさんの「縛り」が松尾さんを締め付けていたんだろうか。そういうことを、どうしたって想像してしまうわたしは、大人計画についての知識や思いが深ければ深いだけ、観ていて(よくもわるくも)気持ちが揺すられるこの芝居の作りに、ずるさのようなものを一瞬感じて、だけど多分、それは露悪的な作為ではなくて、そうやってしれっと吐き出しでもしなきゃやっとれん、ということなのかなあとも思い、結局、そのやり方を許容するスタンスを取って最後までを見届けた。要するに、こっちとしても感情云々以前に、この芝居にどういう姿勢で臨むのか、を、それなりに葛藤させられるタイプの作品だった、ということです。
松尾さんがいつも SPA! のコラムで書いていた愚痴っぽいあれなら慣れている。でも、今回はそれとは違って感じられたのは、今回の舞台に漂っていた諦念というか、深く静かな絶望が、今の松尾さんがものを作るときの根幹にあるように思えたからだ。もちろん、昔から絶望は描いていた、「生まれつきならしょうがない」「宇宙は見えるところまでしかない」といったモチーフに貫かれて、神や隕石によって世界が大きく揺り動かされる、その宿命の中で必死に生きる人たちの、絶望ぎりぎりの希望を描いている作品が多かったから。でも今回の作品は、愛する女を自分のエゴで病院送りにしてしまった男が、その責任とどう対峙してゆくかの物語で、そこには「生まれつきならしょうがない」というような、神などといった第三者によって課せられたハンディキャップとの距離感とかではなくて、あくまでも、人と人の関わりによって引き起こされた状況の絶望が描かれていたと思う。明らかに自分に責任があるのに、責任の取り方が分からないという無間地獄。正直、それは「クワイエットルームにようこそ」と同じテーマのように思えた。宇宙も隕石も神も登場しない、救いのない物語。
今の松尾さんのものづくりの基盤になっている感情がそういった種類の絶望なのであれば、これまでのように神話的スケールに話を拡散させていない現実のつらさに、観客として馴染まなければならないのかもしれない。ああやって、囲われて尽くして、責任を取ることが唯一のすくいであるというような世界に慣れるというのは、なんというか、結構こわいことだな、と思う。でもラストの、今までだったら神や隕石が果たしていたであろう、すべてを台無しにするような幕切れを、自分自身の歌声で締めくくっていた姿に、これはこれでやってゆくという、松尾さんのいびつな覚悟を観た気持ちがして、そこにタチの悪いときめきを覚えたのもまた事実だった。ファンてやつあ気持ち悪いわね、ホントに。我ながら呆れるばかりですよ。
というのが大感想。小感想を箇条書きでメモる。

  • バックバンドが豪華すぎた。豪華すぎたが…ちょっとやりすぎかも。音楽は音楽で素敵だったけど、芝居空間を分断していて、あまり演劇的ではなかったかなーと思った。ぶつ切りシーンの繋ぎ合わせっぽかったというか。回り舞台は勿論、歌舞伎リスペクトでわざとでしょうけどね。
  • 星野源ちゃんと市川実和子ちゃんの歌がものすごくよかった。メランコリックで耳から離れない。でも、あの歌がよすぎてちょっと、芝居から浮いていたようにも思う。劇中歌というより、主題歌みたいだったな。エンドロールで流れる感じ、映画っぽい。
  • 染五郎はやっぱり「型」の人なので…っていうか、まあ、歌舞伎というのはそういう種類の芸能なので、染五郎の台詞回しが松尾さんの口調そのものになっているシーンがたくさんあって、やっぱりなあ、と思った。口伝てで台詞をうつす業界だからねえ。しょうがないのかもしれないが、染五郎の使い方としては、それだとポテンシャルが引き出しきれていない印象。ちょっと勿体なかったかな。
  • 阿部さんは今回、本当によかった。余すところなくギラギラしていて、常に声を張っていて。「御破算」の修羅場を(負傷までして)くぐって来ている阿部さんが、主人公の世界を強引に捻じ曲げるキーとなる歌舞伎役者を演じていた、というキャスティングはなんだか、ちょっと優しい感じがして嬉しかった。途中台詞をキレーに噛んだ(同じフレーズをもう1回喋った)瞬間があったけど、まあ、それがあっても「ブレ」がない役者だなあ、とまぶしかった。
  • というか、阿部さんはやっぱり歌がうまいねえ〜。ぽわわんとなった。
  • 歌がうまいといえば、やっぱり源ちゃんの声はいいねえ〜。歌い始めた途端にぐーっと客を惹きつけていて、いや、彼はヴォーカリストではないのですけれども、プロだよああ、と思った。
  • 大竹しのぶ大竹しのぶだった…大竹しのぶがあまりにもナチュラルに狂っていて、今回の芝居の悲劇性の強調に失敗していたかもしれない。彼女が語るとどんな恐ろしい台詞でも、なんでもないことのように聞こえてしまうのです。「笑い」の方向に大竹さんを使う方法は、松尾さんはものすごくうまいけど、悲劇を語らせるのにはちょっと、大竹さんのほうが器が勝っているように見える。
  • 過去と現代のシーンの錯綜が松尾芝居の醍醐味という感覚があったけど、今回ははっきりと分かりやすく空間や時間軸を整理してシーンを仕立ててあるなあという印象。それがわたしの目にはぶつ切りに思えたけど、違うタイプの観客にも分かりやすいように、という配慮だったのかも。確かに、染五郎や大竹さんを観に来ていると思しき客層も客席にはそれなりにいた。その人たちの速度感との調整ってことだったのかな。
  • 「這い上がるという選択肢がない」「貧乏に頭が上がらない」クリカンの台詞が、従来の松尾ワールドの名残としてきらきらしてた。ああいう、含むものの多い台詞は大人計画の役者に背負わせるのが吉だ、なかんずく阿部さん。真骨頂。
  • 紙ちゃんが豹変するところ、リアルに怖かった…宙ぶらりんに有名人だとホントにああいうことありそうだ。演劇ストーカー恐怖譚。
  • 良々、宍戸さん、皆川さん、村杉さんは、なんというか、手馴れたものだなーと思った。描くほうも演じるほうも。一方で、池津さんはやる役やる役、どう観ても池津さんなのに、毎回別の人の人生を生きているように見える。手癖ではない役者さんの領域に、ここ3年くらいで差し掛かったのだなあと思った。描くほうも演じるほうも。
  • 主演2人以外の客演の皆さんがあまり印象に残っていなくてなかなか残念。

いずれにせよ、今回は事前情報を入れまいと、いろんな方(お友達とか)の感想を全然読まずに臨んだので、すごく新鮮な気持ちで楽しめた。緊張しながら観ていたというか。なので、世論と違う感想書いてるかもなーと思いつつ、なんだか松尾さんが新しい部屋に入ったことがよくわかる作品だ、と勝手に感じたので、それはそれで自分の感想なんだよな、とも思う。松尾さん、いろんなことがあったもんね、なんつうわかったようなことを言うのはフェアではないけど、わたしが初めて観た13年前の舞台とは、やっぱりちょっと違って来ているし、当たり前だけど、今生きて、今つくっている作家を追いかけるということは、この変化を楽しむという意味のことなんだろう…としみじみ思った。
つまりは、松尾さんの変化なら多分、わたしはずっと追いかけられるなーと、改めて思わされた作品だったということです。次の本公演が楽しみだよ、松尾ちゃん。コクーンとか青山劇場とかじゃないところで、今の松尾ちゃんの芝居をじっくり観てみたいよわたしは。待っているよ、松尾ちゃん。松尾ちゃんてば。
ところで、女教師は劇中、一度しか抱かれていないと思ったのですが、二度目は一体いつだったのか? ラストシーン以降ということなのか、女教師の意識化で、なのか。こういうところはもう一度観るか、戯曲でも読まない限り遡って思い出せない。いつか中継映像を放映とかすることがあったら確認してみたい。または戯曲載ってる「文学界」を図書館で借りるという手もあるな。
あ、パンフレットでキャストの「先生」から一筆もらっているコーナーがあったんですけど、松尾さんの「先生」が宮沢章夫さんだったことに泣きそうになりました。たった今、心臓の手術するために入院してる宮沢さんが、去年腎炎で休養していた松尾さんの体調を気遣っているコメントを寄せているという…。もうね、20代にわたしの価値観を定義した作家の皆さん、頼むから、精神のバランスを崩さない程度に養生して、まだまだつくり続けていてくださいよ。頼むから、まだおいてかないで。ホントに。