人生をごいっしょに

今回、ラーメンズの本公演のお知らせを見たときに感じたこと。完璧に自分がたりなので畳みます。
真っ先に、
「めんどうくさいな」
って思ってしまって、そんな自分にちょっとびっくりしたんだけど、同じくらい、自分でがっかりもした。
勿論、公演の内容自体が楽しみだ、という気持ちはものすごくあって、でもその前に越えなきゃいけないハードルの多さ(高さ、というより、多さ?)は想像しなくても分かるので、それがめんどうくさい、っていうことなんだと思う。具体的には、チケット合戦のめんどうくささっていうのが一番大きいんですが。
これはもうひとえに、最近観劇を自重しまくった結果、すっかりチケット取りに腰が重くなった自分の状態のせいだ、ということは分かっている。なので、誰かや何かに文句を言ういわれは一切なくて、ただひとりで「めんどうくさいな…」と呟くだけです。
が、そう呟きながらも思うのは、多少腰が重くなったくらいで観られなくなる公演ってどうなんだろうなあ、ということでもあり、ちゃんと生活している、普通の大人の目に触れることがない娯楽って成熟できるの…? ということでもあって。元々彼ら(と書くときは「彼ら」に「小林賢太郎」の個人名を代入しても成立する文章であることが大半)が志向する「笑い」は弱者にも優しい笑いである、というようなニュアンスの言葉をどこかで語っているのを見たような気がしたんですが、この状況はそんなに、弱者に優しくないよね…でも世の中にそういう公演て他にもたくさんあるけどね…とか、そういう気持ちでいます。
わたしの場合、去年結婚して時間やお金や労力の割り当てバランスが昔と全然変わった、というだけなので、弱者ぶるのはフェアじゃないと思いますが、周囲で子供のいる人などを見ていると、こと劇場に行く、という点においては「弱者」と言っても差し支えないんではないかと思う。松尾スズキ氏のファンの友達は、子供生んでしばらくは劇場に行くことができずにいて、でも子供が2歳になったくらいから周囲に協力してもらって、チケット取った日に向けて準備万端ととのえて、ひとつの作品につき一回だけ劇場に足を運ぶようにしているって言っていた。そういう話を聞くにつけ、彼女みたいに、ちょっとくらい無理をしてでも劇場に行きたい、と思う人は結構いるはずなんだよなーと思う。でもチケットを取るのにはその何倍もの労力が必要で、だから結果としては無理です…ってのはなんか、すごく残念な話なように思えてしまう訳ですよ。劇場に行くという習慣を老若男女に広めたい、みたいな言葉も小林語録にはあったような気がするんだけど、絶対無理じゃん今のままじゃ、っていうね…。
でもまあ、彼らの場合、本公演は映像化するっていうのが暗黙の了解としてあるんですよな。劇場来られない人はそれをお待ちよ、ということになるんでしょう。それはそれでひとつの解決法ではある(習慣を広めたい、とか格好いいことさえ言っちゃわなければ…)(言っちゃうとなんか矛盾を感じさせるから黙ってさえいれば…)から、わたしもチケット取れなかったらきっと、いいさ、DVDのリリースを待つさ…とカーペットをむしるんでしょう、うちはフローリングですけどもネ。
更にアレなのは、正直、そうなったらそうなったで、寂しがりながらもなんかちょっと、気が楽になった感じもするんだろう自分が想像つくってことで。喩えるなら、大好きだったタバコを止めたときみたいな心境になるんだろうと思ってる自分がいる。同時に、やっぱり今でも、できれば劇場で観たい気持ちは依然としてあって、映像と生はびっくりするくらい違うもんなあ、とか、収録入る日は特に芝居が変わっちゃうしねえ、とか、ぐるぐる、ぐるぐる考えてましたずっと。
…というぐるぐるの中で思い出したのは、以前、ラーメンズファンの人が「本当に好きだって言うなら、東京でチケット取れなきゃ地方に行けばいい、そこまでしないで好きって言うのは覚悟が足りない」というようなことをネットに書いているのを読んで、ものすごくびっくりしたときのことです。どこで読んだのか忘れてしまったので、それ書いたのがもし直接知り合いの方だったらすまんとしか書けないのですが、好きならそれくらいの犠牲を払って当然、っていう感覚をとても怖いと思ったことは忘れがたい。世の中、いろんな状況の人がいて、どんな状況でも「好きだ」と思うことはある訳ですから…ね…。
それを書いた人個人のことをどうこう、っていうんではなく、ファンにそういう、「好き」な気持ちがあれば忠誠を示さねばならぬ、みたいな「ノリ」があるのがラーメンズだなーと思います。いい、悪い、ははかれない(はからない)けど、今のわたしにとってそれは、すごく怖いことに思える。怖い、というのは、そのノリでチケット取ろうとしてる人とまともに戦える気がしないっていう意味と、あともうひとつ、そこまでやってチケット取ることができる人が大多数を占める客席ってどれだけ偏った状態に…? という意味と、2種類での怖さ。後者については以前にケラさんが地雷(笑)を踏まれた際の「他者不在」の客席、って表現を思い出す、ってことなんだけども。
(参考:ケラさんのブログにおける「ラーメンズ」 →id:oolochi:20080406:p1)
なんか、戦う前から負けた気分になってる気がする。負けたくないはずなのに、負けてもしょうがないな、ってどこかで諦めつつあるというか。どうしてそんな風に考えるのか、理由はよく分からないけど、昔、「千秋楽観ないとわたし死ぬ」みたいな気持ちでチケット取りに必死になってた頃のことを思うと、魔法が解けただけなのかな、という気もします。この魔法を、いっそ解けて! でも解けないで楽しいから!! って思ってた。解けてみたら、かなり簡単なことだった気がして、それがまた寂しいんですけど、要するに、このシラフの状態で取れるチケットは果たしてあるのか…? っていう、結局、そこに戻ってきちゃうだけなんでした。
…まあ、与太話ですよ全部。結局、お金払ってるお客がむしろ「ありがたく観せていただいております!」っていう感じになっちゃう傾向は、明確な単一要因によるものではないから、多分本人たちにだってどうしようもないことなんだろうし。その傾向を我慢しないと彼らを見守ることができないのであれば、きっとわたしはこの先のどこかの時点で距離を置くようになるんだろう、っていうだけの話。
前、小林賢太郎がやってたトヨタホームの CM のコピーが「人生をごいっしょに」というもので、その頃は、ほぼ同世代の彼らと同じ歩調で年齢を重ねて、ずっと見守ってゆくだろう自分に何の疑いも持っていませんでした。でも今は、「ごいっしょ」できなくなったとはっきりする日が、叶うことなら、今回の公演じゃないといいんだけどなあ、と思っている。と。
それだけの話です。