Gimme A Holler

清志郎が死んでしまった 5/2 からこっち、いろいろなことを考えて考えて、しばらく気が塞いでいたんだけれども、ちょっと落ち着いてきた気がする。
追悼番組を観ていてしみじみと感じたのは、彼は死に隣り合わせる病を患ってしまっても喉にメスを入れることをせず、一度はファンの前に「帰って」来てくれたんだなあ、ってことでしてね。去年、宮沢章夫さんが心臓の病気で手術をしたときの様子をこんな風に書いてらしたことがあったんですけども。

まだ身体のところどころが痛い。肋骨を身体前方でまとめている胸骨というのがあるが、主治医のN先生はあっさり、「骨が痛いのはしょうがないです。なにしろ、縦にまっ二つに折るんですよ、まあ、一種の骨折だから、痛いのはしょうがない」と言う。この医師たちは、ほぼ心臓のことにしか眼中にない。「経過がいい」とか、「順調です」と話してくれるものの、目安はもっぱら「心臓」で、傷や胸骨がどうなっていようと関係ないのかもしれない。

要するに、他の何を犠牲にしても、なりふり構わずにその病気を治すことを考える、というのが一般的な「治療」、ってことなんだと思うけど、清志郎は「忌野清志郎」としてもう一度ステージに立つために、なりふり構って声帯を温存した訳で、彼の家族とか、その選択をどんな気持ちで見守ったんだろうなあとか、こうなってみると想像が膨らんでしまって、ひどくつらい気持ちになったりして。
でも、つらいのと背中合わせに、そこまでして「帰って」来てくれた清志郎の歌い手としての誠意を、今更ながらに思い知った感じがあって、そこまでしてくれた彼に対して、死んでしまったからって悲しんだりとか寂しがったりとか、そういうところに立ち止まってしまうのは不当だなあ、って。やっとそこに思い至ったので、気持ちの整理がついたんだと思う。寂しいのはしょうがないけど、それだけじゃない。そう思えたら、すごく楽になった感じです。
この10日間、インターネットでたくさんの人たち、著名人、一般人問わず、たくさんの人たちが彼の死を悼む言葉を綴っていて、清志郎に関する思い出を綴っている人とか、「今頃天国で××とセッションを…」みたいに書いてる人とか、「ヒッピーに捧ぐ」の歌詞を引用してる人とかが多くて、いくつかは、うーむ? と思ってしまうものもあったけど、いくつかは、ああそうだ、そうだよね、って思わされて、読んでてほっとしたものもあった。
例えば、ケラさんのブログ

俺なんかよりずっと清志郎に近しかった人達も、みんな、清志郎さんナシで生きてゆくのだなあ。
元気を出さねばなあ。

って言葉には、素直に、ああそうだなあ、って思えて、なんだか救われた。そうだなあ、元気を出さねばなあ。って。
それと、この第一報を見たとき、アッコちゃんの「永遠に友達です」って言葉にはちょっと泣いてしまった。のは、Bill Frisell の曲にアッコちゃんがつけた、「永遠のともだち 〜Gimme A Holler〜」の歌詞を思い出したからで。

強くかがやいてる あなたがすきよ
小さく丸まってる あなたがもっとすきよ

清志郎の病気が分かる前、大阪城ホール満員の観客の前*1で、「わたしたちの曲を、わたしたちのためだけに歌いましょう」って言いながら、アッコちゃんと清志郎は、ふふふと笑い合って「ひとつだけ」を歌っていたなあとか。清志郎が療養に入ったあとも、アッコちゃんは、例えば真夏のひたちなか*2、昼ひなかに、「ここに来られなかった忌野清志郎の分も歌います」って高らかに宣言して、「ひとつだけ」を歌っていたなあとか。
思い出すことはたくさんあって、寂しさも誘うけど、でも寂しいだけではないので。そういう記憶を持っていること、記憶に残るような思いを清志郎が残していってくれたことを、嬉しく、ありがたく思うのもほんとうなので。
清志郎がいたこと、さんざん歌ってくれてたこと、癌を患ってもなおステージに帰って来てもう一度歌ってくれたこと、そうして死んでしまったこと。寂しいけど、同じ時代で観て来られたことは本当に嬉しかった。それが今、わたしが清志郎について感じてることなんです。うん。

*1:2006年2月の新ナニワ・サリバンショー。

*2:2007年8月の RIJF