スパシーバ

連休中、日本総合悲劇協会「ふくすけ」の公演映像を観た。この舞台の公演映像を観るのは初めてで(映像を見せてくれたお友達に感謝!)、色々思うところあって、ついでに何となく対になっているように感じた大人計画「エロスの果て」の公演映像も。
そしたら特にこの2作が対、ってことじゃなかった。諸々のモチーフが繰り返されるのはすべての松尾作品において共通だし。何でこの2作だと思ったんだろう。あと考えたら、去勢 → 切り取った男根を持ち歩く、っていうのは「まとまったお金の唄」でも繰り返されていて、何となく、リニューアルされたように感じていたけれども、実際のところモチーフの連鎖はまだまだ続いているのだなあと。
にしても、本当にスタイリッシュで、この頃の松尾さんの舞台の美意識ってとんでもない。音楽も照明も舞台装置も、脚本だけ読んで想像できる範囲を大きく超えたレベルで格好よくって。そもそも、松尾さんの脚本て時系列や背景がくるくる入れ替わって錯綜するのが特徴だから、セットにも抽象性と具体性の両方が必要なんだよね。音楽も、エモーショナルで哀しくて、だけどどこかで聴いたことがあるようなものじゃなくて、権利関係とかもあるのかもしれないけど、こないだの講演会(という名のトークショウ)でご本人が言ってらした「あるものでどうにかする」という言葉を思い出した。
こんな美しい要素の上で、あんなに汚い単語を使って、人間の汚いところを描くのだから、トータルではものすごく美しいものか、汚いものか、どっちか分からないものが出来上がるのも当たり前だなあとか、そんなことを思った。ほんで、よく考えたら、「まとまったお金の唄」は時系列の混乱が殆どなかったこと、セットが今まで以上に抽象性を抑えたものだったことに気付いた。より具体的に、シンプルに物語っている感じ。それが独特の力強い感じに繋がっていたのかな。
抽象的な表現は多分、観念を手玉に取ることができる才能がある人だけの特権だと思うし、松尾さんはずば抜けてそれが上手いから、松尾作品を観ていて、頭が着いてゆかないのに感情がぐわーってかき混ぜられて、目が眩むような思いをしたことは何度もあった。でも多分、それだけじゃなくて、もっと実質的なもの、具体的なものが、こないだの本公演にはあったのだな、と今更ながらも改めて。何を見ても何かを思い出す。それだけわたしは、「まとまったお金」が好きだったんだねえ。
ともあれ、優れた演出家が作った舞台というのはどれだけの質感を持つものなのか、わたしは宮沢章夫松尾スズキ両氏のお陰で知っている。中途半端に演劇的なことをする人のことを信用できないのはそのせいだ。点が辛くなって面倒なこともままあるけど、やっぱり「ありがとう」のほうが強い、かな。そんなことを改めて思った。