「哀しい予感」

公演2日目を観て来た。OMCカード先行で取ったらびっくりの最後列で、通路を挟んだ隣の席には演出家が、メモを取るための紙とペン持参で着席していて相当にビビったり。途中20分の休憩を含むトータル3時間という上演時間の長さには驚かされた。感想を軽くメモる。
天才・塚本晋也が初めて舞台演出に挑戦、ということで、加瀬くんも出るし、めちゃめちゃ楽しみにしていたんだけど…うううん、色んな角度から見て「あーダメだ」と思った舞台だった。理由を箇条書きにしてみる。

  • ノローグが多すぎる。ピンスポ背負った主人公が正面向いて状況を説明する、なんてのを、茶化しじゃなくて本気でやられても大いに困る。しかも一度じゃないし。
  • ノローグじゃない場面の大半は、登場人物2名によるダイアローグ。これがまたキツい。なぜかというと、ホントに「会話」だけなので。部屋に座ってただただ喋っているだけなのだ。映像で撮影すれば、喋りながらの小さな身じろぎや表情、目線の動きなんかを捉えて、素敵なシーンにできるんだと思うけど、舞台としてはまったくもって貧しい表現になってしまっている。
  • セットが書割っぽくて、芝居というよりコントみたい。っていうか、シーンを具体的に再現しなきゃ、という方向にセットが作られているため、場面分、相当な作りこみをしたセットを用意していて、何つう無駄なお金のかけかたなんだろう! とおののいた。部屋の中のシーンが3箇所あって、全部、ちゃんと建ててましたからね、階段とか窓とかドアとか全部ちゃんとついてるセットを。映像だったらちゃんと作らないと成立しないのかもしれないけど、舞台ってそういうもんではないのではないのか。そういうもんではない方向で、描く空間を切り取って囲い込んで、それを舞台上でこそのやり方で表出させる、っていうのが演劇的なアプローチなのではないか。ラストの野外のシーンはびっくり。自然(岩とか空とか)をセットにして舞台上に持ち込んだら、必要以上に学芸会的に見えるに決まっているのに。
  • 同様に、空間の使い方に柔軟性がない。セットを作りこもうとする、っていうのと同じ意味合いで、一度「ここの通路は玄関へのアプローチである」と決めたら、それ以外の使い方をしようとしていない。舞台という限られた空間の役割をそういう形で限定してしまうと、作り物であることが強調されて、結果的にはわざとらしさだけしか残らないのになあ、と思う。何より、本多であんなに客席通路を多用している芝居は初めて観た。完売してる日の当日券は望むべくもないようだ。
  • 音楽は、場面転換の BGM や、盛り上がるところでの効果音、として使われていて、何だろう…やっぱり映像に音を被せる感覚に思えてしまった。選曲はどれもすっごく素敵だったんだけど、使い方が垢抜けない感じ。舞台表現として、効果的に使用されていたとはいいがたく、むしろイケてなかったので、恥ずかしくなる場面もちらほら。チュウするシーンで「いい音楽」が流れるなんて…舞台でやるには相当の覚悟がないといかんことではないのか。
  • 台詞で使っている言葉のトーンが微妙。ナチュラルな口語に落としたいのか、普段は絶対口にしないような言葉も台詞として喋らせる覚悟があるのかが分からない。前者には前者なりのワードチョイスがあるべきだけれども、まったくその気配は感じられず、原作の地の文のフレーズの一部を台詞として喋らせるので、不自然きわまりない言葉を喋らされていて、役者もあれじゃあしんどいぜ、と感じた。「甘い声」「甘い闇」なんて、日常的には絶対出てこない言葉じゃないか。勿論、そういう言葉を使って台詞を仕立てるという表現があってもいいけれども、それならそれで、全体のトーンを一定に保ち、一貫性のある「喋りにくさ」で台詞を統一しなければならないし、そういった言葉は聴いてるほうの抵抗も大きいという事実をきちんと受け入れて、相応の覚悟を持って書いて、対策を持って演出しないといけないと思う。この舞台で役者が発していた言葉にはそれらがない。どっちつかずで、極めて「筋書き追っちゃいました☆」みたいな台詞で舞台が進行していた。
  • 役者の台詞の噛みがひどい。いくら公演2日目だからって、大事なところを噛みすぎる。ただでさえ、会話としては不自然な、耳馴染みが悪い言葉を多様している台詞なのに、喋るほうがノッキングしていちゃあ、客席に届く訳がない。っていうか、あんだけ複数の役者が噛むっていうのは、相当発しにくい台詞である証明のようにも思えなくもない。

…まあアレだ、まとめて言えば、「演劇として成立していない」という風に思える箇所がいっぱいあって、舞台としての善し悪し以前の問題だった、という感じだ。これは、小林賢太郎のプロデュース公演の初期の作品にも感じたことなんだけど、「演劇ならでは」の勘所を外しまくっている残念さを強く感じた。違う手法でものを作ってきている人が、いわゆる演劇の手法へのシフトチェンジに失敗した例、ということなんだろう。奥行きというか、立体感に欠ける平坦な舞台になってしまっていた。
このこと自体は不思議でも何でもないし、塚本さんの映画監督としての才能を汚すものでは全然ないと思う。ただ、演出という名の下に、どんな媒体の演出でもオッケイよ、という人ばかりではない、というのは事実なんだなあと。ここで「向いてなかった」ってことで今後舞台演出には手を出さないよ、としてしまうのもよし、ボトルネックを把握したと思えばまた次作を手がけてみるもよし。お金を払って観に来る人がいるのなら、続けるのもよいだろうと思う。でも、取り敢えず今作の時点では、相当に自覚が足りていない状態で幕が開いてしまったのだなあということは最後列にまでびんびん伝わってしまったので、7,800円(高!)を払って、極寒+大雨の中下北まで足を運んで、ほんで観せられたのがコレじゃあ、分かりやすくがっかりした、としか言えないのも仕方がないということだ。
そんな訳で、役者陣は、芝居らしい芝居にまで至っていなかったように思う、それ以前の無理感があまりにも強くって。そんな中で、お母さん役の松浦佐知子さんの芝居はトーンが一定していて確かなものがあった…んだけど、いかんせん、口調が強くて、あの作品の中でのお母さんらしさとして、わたしは違和感を覚えてしまった。市川実日子ちゃんは可愛かったけど、淡々としたトーンの芝居をする人だから、台詞自体が持つ違和感を超える演技とはいえなかったように思う。加瀬亮くんは、何かものすごく「初期よしもとばなな作品の男の子」という感じで、それはきっと、言葉遣い(語尾とか)が独特な感じで書かれている台詞(結構原作どおりのところが多かった)を、上手くこなしていたっていうことになるんだろう。中でも、実日子ちゃんの弥生に「逃げるな」って言うところ、あそこはすごくよくって、瞬間的な説得力がすっごく出てた。でもそのいい芝居のさなかに台詞を噛んだので、ものすごくがっかりさせられてしまったのも事実…やっぱり、舞台役者としては「噛む」「口調のトーンをコントロールできない」っていうのは、その他全部の魅力が吹っ飛ぶくらいに、ものすごーくダメなことなのよ。勿体ないったら。
以上、あくまで個人的な感想であります。終演時、通路挟んで隣の席にいた演出家が手にしていたメモには色々な書きつけが踊っていたように見えた。いずれ改良されてゆくのであればよいなあと思う。また、これを観て、同じように映画監督が舞台演出を、という、行定勲さんの「フール・フォア・ラブ」もやっぱり観てみたいなと思った。同じように映像の脚本・演出を担当している人が、舞台に来るとどうなっちゃうのか、ということで、塚本さんという比較の対象ができたからね。誰か土日のチケット余ってる人いませんかね?
※ 後日追記:達彦(だっけ?)役の奥村知史くんの芝居がコミカルだったのはものすごいアクセントになっていたことを書くのを忘れた。ただ、アクセントになりすぎていてバランスを崩していたようにも思えなくもなく、どこまで意識的なものだったのかは謎だったんだけど。彼の芝居のトーンは面白かったなあ。面白すぎて、なんか浮いていた。あれが演出家の狙いなら、もっとあちこち破綻しててくれたらよかったのに、っていう感じ。
※ 後日後記2:あと思ったこととしては、この舞台、食べるものや飲むものの扱いが雑に思えた。お茶を入れてくる、食材を調理する、等の動きが舞台上で過剰なほど嘘臭く見えてションボリ。よしもとばなな(当時吉本ばなな)の小説を舞台化するのに、このへんが弱いのは致命的だと思うのだけども。
※ 後日後記3:ワーストの台詞は、ゆきのの「さ、プリンでも作りますか!」。あれはない。あれは言わない。恥ずかしくてどうしようかと思った。