雪の降る街を

東京でちゃんと雪が降ることは1年に数回あるかないかなので、ぼたん状の雪がしっかり降るといつも、10年くらい前の雪の夜のことを思い出す。
その夜は都内も結構な積雪で、わたしは三軒茶屋世田谷パブリックシアター内の会議室にいた。なぜかと言うと、宮沢章夫さんの戯曲史みたいなのの講義があったから。半年に渡って全6回くらいでやった講義シリーズで、まだ大学で教鞭を取られるようになる前だったことを考えると、割と貴重な機会だったのかもなあ、と思う。
その夜も、いつものようにレジュメと時間割を大幅にはみ出して、宮沢さんの自在な講義というかトークというか、は続いていたのだけど、何せ大雪、「帰れなくなると困るから」とほどほどのところで講義が終了。わたしはいつも通りに、三軒茶屋から東急田園都市線で渋谷に出て、井の頭線で吉祥寺 → JR 中央線、というルートで帰ろうとしたのだけれども、渋谷の時点で、一部の JR 線が積雪のために運転を中止していることを知り、それでもどこか他人事だと思いながら井の頭線に乗り、吉祥寺に着いてみると、駅には JR 全線運転停止、との張り紙がばばんと張り出されていた。
運転再開の見通しも立っておらず、タクシー乗り場も長蛇の列。当時は漫画喫茶とか、女性が普通にひとりでも夜を明かせるような施設はなかったと思う。途方にくれて、取り敢えずわたしは PHS(が普通だった)の電波の入るところを探して(電波入らないところが結構あった)駅のまわりをぐるぐる歩きながら実家に架電。すると電話の向こうで母が、「お父さんが京王プラザホテルに泊まってるわよ」と言う。なんでも翌日早朝会議があるからと、日中の時点で京プラ勤務の知人に頼んで部屋を確保してあったのだとか。他に術もないわたしは、井の頭線を逆方向に戻って、明大前で京王線に乗り換え、新宿まで辿り着いた。
ホテルに着くと、父の泊まっている部屋はセミダブルだった。当時、わたしは多分24〜5歳。父と会話をしようにも共通の話題は殆どないし、父に到底言えないこともそれなりに抱え始めているし、何を話したらいいのかまったく分からない、そんなくらいのお年頃だ。だのに、父と同衾するというのがなんかもう、これってどうなんだろうかなああああ、と思っていたところに、「お父さんはこのベッドカバーを外して床に寝るから!」とかあふあふと言い張る父。そんな風に言われたらあまりにも気まずい。「いや、いいから! 大丈夫だから一緒に寝よう!」と必死なわたし。気まずさ、更に倍増。正直かなりつらい状況。
気まずいままシャワーも浴びて、所在なさを誤魔化すためにテレビに釘付け、みたいなフリをしてニュースステーションをやたらとじっくり見た。父も横でテレビのほうを向いている。ぎこちない会話も途絶え、ぼんやりと画面を見るわたしたち。ブラウン管には、積雪のせいで家に帰れなくなった会社員たちが、同僚と飲み歩いたり、カラオケボックスを陣取ったりする姿が映し出されている。「みんな大変だねえ」わたしは言った。「明日も普通に仕事だもんねえ、大人って大変だなあ」。
すると父は、何を思ったのか急に、「あ、そうか」と明るい声を出した。「今日みたいな日はあれだな、要するに、若い男の子にとっては、女の子をホテルに誘う口実としてはうってつけだな!」。もう、どうしようかと思った。何を言うんだろうこの人は、と。気まずさという意味で、あれを超える体験はその後もない。父親ってのは何と困った生き物なのか! とあのとき、強く強く認識した。
勿論、社会人として10年以上を経過した今では、大人として共通の話題もでき、父との会話は至極スムーズなものになっているから、今なら同じ状況に直面したとしても、全然気楽に過ごせる自信はある。でも、父は当時勤めていた会社を役員まで勤め上げ、今は同業の知り合いの会社の手伝いをしている気楽な身なので、早朝会議のためにホテルをゴリ押さえすることももうないだろうと思う。父の知人の京プラの人ももうリタイアしてるだろうしね。
そんな訳で、あの気まずさも今となってはちょっと懐かしい記憶。思い返して苦笑いしつつ、今夜電車が止まらないことを祈るばかりのわたしなのでした。