見仏記4 親孝行篇/みうらじゅん、いとうせいこう

見仏記4 親孝行篇 (角川文庫)

見仏記4 親孝行篇 (角川文庫)

おもしろかったー。すごいおもしろかったー。元々、せいこうさんの書く文章の過剰さと叙情性がすきなんだけど、これは格別におもしろかった。何故かというと、後半のテーマがひどいから。そのテーマとは「親友(仏友)どうしが、どっちかの両親と一緒に4人で旅をする」というもの。…んね、ひどいでしょ…?
でも、わかるなー、って思ったのは、人間40をすぎても自分の親には素直にも寛容にもなれずに小さなことで「だから!」と声を荒げてしまったり、気恥ずかしさが勝って語気が強くなったりするけど、友人の親にはうまいこと接待ができる、ってところ。社会に出てれば、自分よりも目上の人の気持ちをよくさせることなんて(よほど相性が悪いか、悪意をもたれてる相手じゃない限り)プライド捨てれば割と簡単だもんね。「上司」に対しておべっか使うのはプライドが許さなくても、「親友の親」が相手なら、おべっか使っても男は廃らない。相手の親に対しては心置きなく、のびのびと、力の限りおべっかを使うみうらさんとせいこうさんがおかしくて、かわいくて、たまらないものがあった。
あと、みうらさんて結構、達観してるところがあるように見えるじゃないですか。でも、自分の親には気恥ずかしさが捨てられなくて乱暴な口を利いたりしている、というのをせいこうさんが冷静に観察して書き留めている訳で、少しの意外性もあって、へー、なんて思った。そもそも、わたしは見仏記シリーズは手を出してなかったのに、この1冊だけどうして読もうと思ったかというと、こないだ本棚を整理してたときに出てきた、みうらさんの「親孝行プレイ (角川文庫)」にさっと目を通したとき、極論で綴った1冊の中でカリカチュアしてた親孝行の、ひとつの実践例みたいな感じで、あとがきでこの旅に触れていたからだった。そこでみうらさんは、親孝行術を提唱してるのにイマイチ自分の親に対して孝行プレイに徹せない自分について触れつつ、せいこうさんと自分の、相手の親に対する働きのすばらしさを誇らしげに語っているのでした。それとの対比で読むといっそう、この1冊がおもしろかったという次第。
それにしても、やっぱりせいこうさんはすごいな、と思うのは、例えばこんな文章にぶちあたったとき。みうらさんのご両親と一緒の旅で、おかあさまのご意向であまり仏像とかがないようなところに行かざるを得なくなって、仕方なく即身仏*1ばっかり見てしまって、「死」に対して考えてしまった挙句、みうらさんが「いつか親が死んだとき、今日、なんであんなに険のある言い方をしちゃったんだろうと後悔すると思う」と言ったとき、せいこうさんが返したという言葉。

私はなるべく自分の答えが説得力を持つように、わさと間をもった。そして答えた。
「お母さんもお父さんも、みうらさんがそう思ってることを知ってると思うよ。だって俺も知ってるもん」

これは、ご両親と別れた後になんだかしんみりとしてしまっているときの言葉なんだけど、そのあと、2人だけで帰る途中に寺がいろいろある地域に寄って仏像を観ながら、なんだか寂しい気持ちになっているときのこと。

「田舎の寺はあんまり直してない分、リアルだよね」
ようやくみうらさんが言った。
何がリアルか。私は答えはしなかったが、頭では考えていた。
静かであること。自分より他、誰もいないこと。やがて、その自分も消えること。それだけである。それだけが、リアルなのだった。

全体とおして、独自のこだわりで行動するみうらさんのパッションと、それをものすごく細かく拾って、そのまま書き留めれば充分おもしろいのに、ちゃんと細かくその発言の意図とかを書き込むいとうさんの緻密さの対比が、もうそれだけで充分におもしろかったので、上に引用したような無常感の描き出し方とかはまあ、付帯してるおまけのようなものなんだけども。でも、とてもおいしいおまけだった。わたしには格別なおまけだったよ。

*1:言葉は知ってたけど、この本で初めてどういうものなのかを知った。信仰のために生きながら埋められて、断食して成仏した人のミイラなんですて…。