西の魔女が死んだ

原作は随分前に読んだ記憶がある。でも、細かいことは全然思い出せない状態で映画を観た。
映画のラストに一番の「泣き」のシーンを持って来ているので、エンドロールで嗚咽する人が多く、劇場がちょっとしたカオスと化していた。客席の電気が点く寸前におおおおぅぅぅぅ…という声が聞こえたり。涙のクライマックスのあとにクールダウンするような流れがあり、感情の収束が図られるという構成が一般的に思えるので、割と大胆というか、感情がぶわっと揺すられたところでばっさりカットアウト、という、非常に作為的なつくりの映画になっていたのが印象的だった。隣の席の女性2人連れは、電気が点くと泣きながら顔を見合わせて、えへへ、と照れくさそうに笑い合っていた。気まずそうではあるけれども、ちょっといい光景だった。
作中、西の魔女こと、主人公の祖母が大変魅力的だった。中学に入学したばかりの主人公から見れば叡智のかたまりで、それこそ茶目っ気たっぷりに自称する「魔女」だという言葉を鵜呑みにしてしまいたくなるほどに完成された人格を持つ先達として描かれている。でも、単身山の中で暮らす生活が寂しくない訳はなく、その寂しさを乗りこなす知恵こそ持ってはいるけれども、やはり滲み出る寂しさや老人ゆえのはかなさは切なく、そういうシーンがいちいち胸に響いて、ちょっとまいってしまった。
霧の中で孫を探し、連れ帰って熱い紅茶を飲むシーン、一面の野いちごに泣き咽ぶ回想シーンなど、亡き夫の不在に触れるシーンではとても遠い目をしており、いくつになっても愛する人の不在を悼む気持ちは消せるものではないのだなあとひどく染みた。娘(つまり主人公の母親)に少々きつい言葉を浴びせられ、あれだけ確立した自我や生活習慣を持つ祖母が、確かにオールドファッションなのかもしれない、と揺らぐシーンなど、見ていてつらく、切なくなった。孫との料理や園芸のシーンも活き活きとして、生活感のある映像が素敵だったし、水分の少ないイギリスパンのトーストのカリカリぐあいをはじめ、食事がどれもおいしそうでたまらなかったけれど、それらのシーンよりも強く、自身の寂しさを噛み締めるような老女の静かな表情が、今も脳裏に焼きついて離れない。
去り際の孫娘(つまり主人公)がそうだったように、母や祖母という存在は、かっちりと完成した人格を持つ超然とした人間に思え、そこにちょっと毒づいたり、甘えの変則として強めの言葉で否定をしたりしてしまいがちなように思う。というか、わたしは母に対してよくそれをやってしまう。離れて暮らしていると、気まずいままで別れたあと、このまま会えなくなるようなことが起こったらどうしよう、と急に不安になるのだけど、次に会うとまたすぐ気持ちが緩み、きつい言葉で文句を言ったりする。それでまた不安になり、ひどく落ち込む。自分でも持て余すくらい、毎回、何度もそれを繰り返しているわたしが、スクリーンに映る祖母の寂しそうな表情に胸を痛めたのは、ひとえに自分と母親の関係を重ねたからで、非常に幼稚な感傷だったと自分でも思う。でも、とても気持ちよく染みた。そういう力のある映画だった。
主人公は女子中学生だけれども、映画では主人公と母、母と祖母、という2組の母娘が描かれていて、祖母が亡くなったあとに駆けつけた祖母の娘、つまり映画でりょうが演じた主人公の母親が、自分の娘を部屋から追い出し、母親(彼女にとって)の亡骸に号泣するシーンでは、殊にひどく泣いてしまった。ものすごくリアルに、あのシーンでの母親(=りょうの役)の気持ちに想像が及んだからだ。2組の母娘のうち、やはりわたしが感情移入するのはもう、母親と祖母の側なのだということ。多感な思春期の感情を持て余すわずらわしさより、自分が大人になり、老いた母を眺める切なさのほうが、今のわたしにとっては生々しいのだということを、この映画で改めて思い知った気がした。
わたしはこの間結婚したばかりで子供はいない。でも、大人になって家庭を持っても、多分子供を生んで母になっても、自分の母親に対してはいつまでも「娘」としてしか接することができないものなんだろうと思う。大人になったことで目線が一緒になった気になり、背伸びして偉そうなことを言っても、そのことで自分で傷ついたりするのだから、やっぱり娘は「娘」でしかない。甘やかされ、守られているのだなあといつも思わされる。その実感は甘ったるいけど、母は既に老境に差し掛かりつつあり、いずれいなくなってしまうという実感はどんどん強く、時にひどく具体的に迫ってくることもある。そこで感じるこわさはどうしようもなく、不安定な足場のひどく高い場所に立たされているような心許なさに時々悩まされる。大人になってもこのこわさは全然減っていないことに時々気付いては、その都度、いちいちびっくりしてしまう。この感情に慣れることもあるのだろうか、この映画のように、母の魂が身体を離れる日が来る前に。今のわたしには見当もつかないけれど。
そういえば、この映画では、中学1年生の孫娘に対して、対等な個人として扱おうとする祖母の態度がとても丁寧に描かれていたように思う。作業用のエプロンやスモッグを割り当てること、仕事を任せること、庭の一角に自分の場所を持たせること、生きてゆくために必要な智恵を「魔女修行」というフォーマットで教えること。ちょっとしたことの積み重ねだけれども、孫を子供扱いせず、信頼と尊重をもっていい方向に自意識を育てるよう誘導する方法として、とても完成されていたと思った。とても難しいだろうことをさらりとやっていたのは、母と娘ではない、祖母と孫という距離感の賜物だったのか。もしもりょうが演じた主人公の母に対しても、若かりし頃の祖母がああいった態度を徹底できていたのだとしたら、あれだけのメソッドをもって育てたとしても、一度大人になってしまえば「娘」と「母」の関係は微妙さを孕むということで、それはそれでまた、別の切なさを物語っているように思った。
主人公を演じた高橋真悠ちゃんの、第二次性徴前特有の信じられないくらい細い手足とぽかりとした表情がひどく印象的で、時系列で言えば2年後にあたるファーストシーンとラストシーンの制服姿が大人びて、子供と大人にとっての時間の経過の意味の違いを物語っていたのがとてもよかった。主人公の父親役の大森南朋が色気封印とばかりに気弱でやさしい男を演じているのには笑ってしまった。本当にいい父親に見えてしまったので。キム兄はああいう様子だと普通に怖いな、とも。
総じて丁寧に撮られたいい映画だった。また原作も読みたくなった。