わたしもあなたの数多くの作品のひとつです

タモリの手には白紙…あふれる感謝そのままに(スポニチアネックス/芸能)
この弔辞のどこに胸を打たれたっていったら、エントリタイトルのひとことにつきるのです。
かねてより、芸能人、芸人としてのタモさんの立ち方のユニークさはある意味での「無私」に集約されると感じていて、これは「タモリ倶楽部」のひょうひょうとしたテーマ選択やキャスティングでもわかることだけれども、タモさんは常に、博識をひけらかさず、好みを押し付けず、他人を偏向して扱わず、ものすごくニュートラルな状態で人前に立てている稀有な存在だと思う。だから、このひとことがひどく沁みたということなのですが。
弔辞って、故人の近しい人物が、列席者に対して「故人はこんな人だったんですよー」と具体的なエピソードを交えて話す…というものだと思ってたんだけど、タモさんの弔辞は故人にだけ向けられているようで、故人への精神的な貞節を誓うようで、一生ギャグを生きてゆくからと約束をしているようで。とてもとても個人的な言葉に思えて、手にしていた紙は白紙だったなんて聞くと余計に、すごい集中力で紡がれた言葉のように思えて、そんなものを、他人が文字に起こして残しておいていいものなのかしらん、とソワソワした気持ちにさせられた。
わかりやすく言うならば、世紀のラブレターじゃないの! とドキドキしてしまったということなんですけどね。どこの世界に、他人が他人に宛てたラブレターをもっともらしくネットニュースに掲載する道理があろうか。それを少々下品に感じてしまう、そんな権利は、アイドルのシモの噂が掲載された週刊誌を平気でニヤニヤ立ち読みするわたしにはないのかもしらんけども。
タモリ」という芸人・芸能人が赤塚さんの作品なら、作者がいなくなってしまった今、作品のほうは取り残されたような気持ちになっているのではないかと思う。やっぱりそれは、とても切ないことだなと感じる。ただの恩人ではなくて、世界に対するまなざしを与えてくれた人、な訳だから。残された側の茫漠とした気持ちを想像するだけで、無条件に切なく、やるせない。でも、それでも「タモリ」は故人の作品であり続ける、ということを、あの場で高らかに宣言したんだと思った。だからその覚悟の深さが沁みてしまったし、「あなたの作品」という言葉の持つ従属のニュアンスに、萌えに近い感慨を抱いたりもした。すまん。
でも、クイズ系バラエティが多い昨今、例えば品川庄司・品川のように、ちょっとでも自分のもともと持っている資質や興味が役に立ちそうだったら、どこにでもじゃんじゃん出て行って堂々と語ってみせる、そういう芸人・芸能人が得をする傾向が目出ってきているように思う。そんな中で、タモさんの慎み深さは本当に際立っている。例えば、おしゃべりクソ野郎がもし「タモリ倶楽部」に出演してタモさんに講釈を垂れたら…なんて、想像しただけでギャーと叫んで布団を被りたくなるもの。そこに、「自分」なんてない、と開き直るに等しい、「あなたの作品」を自称できることの凄みを感じずにいられない。
なのでね。確かにとても泣ける弔辞だけれども、この弔辞を作品のように扱ってバックアップしておくことには、なんだか抵抗を感じてしまったのでした。ラブレターだから、というのもそうだし、タモさん自身が「作品」な訳だから。作品が作品をつくる、っていうのも変な話*1だし、表現として、作品として、文字に残しておくものなのか、わたしはあまりぴんと来なかったです。リンクしちゃったけどな。

*1:ミュージシャンとしての存在は脇においておきたい気分ですが。