ケストナーの「ほらふき男爵」/エーリッヒ・ケストナー

ケストナーの「ほらふき男爵」 (ちくま文庫)

ケストナーの「ほらふき男爵」 (ちくま文庫)

ケストナーが、戦時下のドイツで執筆を禁じられながら、「長靴をはいた猫」「ガリバー旅行記」「ドン・キホーテ」などの有名作品をジョブナイル化した作品。
わたしがケストナーをすきな理由はすべて、「飛ぶ教室 (岩波少年文庫)」に出てくるこんな一節に集約される。

どんな迷惑行為も、それをやった者にだけ責任があるのではなく、それを止めなかった者にも責任がある。

ケストナーの作品は大人向けのものも子供向けのもの(こっちの印象が強いけど)も、絶対にこの基調を崩さない。正しくないものには舌を出し続けるし、真っ向から向かっても勝てない相手には、ユーモアでささやかな仕返しをして、決して迎合したりしないという意思を示す。そういう屈強さが根底にあるところがだいすき。
初めて「飛ぶ教室」を読んだときには知らなかったけど、彼は正面切ってナチスを批判して、作品を焼き捨てられたりしていたんだそうで。そういう不穏な空気がドイツ国内に漂い始めた頃に出版された「飛ぶ教室」は、多分、ケストナーの姿勢をものすごく強くあらわしている作品なんだろうと思う。
一方で、この作品はもうちょっと寓話的だ。なんか、この作品を出版したころ、オリジナルを書くことを禁じられていたから、ドイツ民話や古典を子供向けに書き直すことで切り抜けていたんだとか。そのせいのかな、あからさまではないけども、なんか意地悪な目線を感じる。風刺の皮を被った意地悪、とでもいいましょうか。悪意に近いほどの強い意思を感じる気が。
でも、恥ずかしながら「ドン・キホーテ」、なんとなくしか知らなかった(この作品を引いて来ている作品はいくつか読んだ記憶がある)(なので本家を断片的に知ってしまっていた)んだけど、すごくかなしい話なのなー、読み終わったらとてもさみしくなってしまったよ。わたしが感じた、人の愚かさを浮き彫りに…みたいな解釈はロマン主義的なもので、祝祭的に捉えたり、コメディとして捉えたり、いろんな解釈があるらしい。ケストナーのスタンスはわからないけど、わたしにそういう感触を植えつけたということは、そういう解釈で書いたんだとしたらすごい力量! と思った。
ドイツ民話を書き直した表題作が一番分量があるんだけど、この話がひどくて、意味もなく、ひたすらいたずらをし続ける男が主人公の物語。しかもいたずらの種類がかわいらしくなく、パン職人だと嘘をついてパン屋に雇われて、パンを焼けもしないのに一日店を任せられて、焼けないパンを動物の形にして焼いて、親方にどやされて放り出されて、でもその動物パンは自分がやいたんだから、ともらっていって、それを広場で売って大もうけしたりする。冷静に考えれば、それはもはや詐欺だよねえ! と呆れるばかりのズル賢さ。でもなんか、いたずらの結果、騙されるほうの愚かさを看破してはまた去ってゆく…みたいな、ちょっと格好いい流れ者みたいな扱いになっていて、何の意識操作? と笑ってしまった。
ともあれ、すごく不思議な本だったな。面白く読んだけど、読みきれた感じがしていない。こういうのも書くのかー、とケストナーのひととなりにいっそうの興味がわいてしまった。