ソングライターズ・矢野顕子 Part1

こういう形で、自分のうたうことばについて、ことばで語っている矢野さんを見るのはとても珍しいことだなあ、と途中で思った。home ということばについて語っているあたりを観ていて。
印象深かった話は4点あって、こんな感じだった。

  1. 人間には「ほんとうのこと」を知りたいと思う人と、どうだっていいじゃない、っていう人と2種類いる。自分は前者だと思うし、前者だと思う人に惹かれる。
  2. 「home」という言葉をよく使うのだとしたら、それはいわゆる「家庭」「家族」という意味では使っていない。自分が自分でいられる場所、という意味。家庭を作るのならば、ひとりでも立っていられる人同士が集まってこそ家族となれる、と考えている。
  3. ほかの人のうたを自分で歌うとき、選ぶ基準の大部分は詞。曲を聴いていいなと思ったらまず、歌詞をすべてチェックし、自分が普段使わない言葉が歌詞に使われていないことを確認、問題なければ何度も聴いてピアノに向かう。
  4. ほかの人のうたを歌うときは自分のことばとして歌う。たとえば、関西人のイントネーションで詞を乗せた歌をそのまま歌って気持ちがよくなければ、自分のイントネーションで歌う。

一番胸に来たのは1番目でした。これはわたしも、本当に、子供の頃からずっと感じてきたことだから。どうだっていいじゃない、って思ってる人には興味が持てないし、そういう人が言うことが視界に入ってくると、全部赤い太いマジックでバッテンをつけて廻りたいと思ってしまう。本人、そう思ってることがバレてないと思ってたりするけど、そんなのは大抵見え見えなんだもん。
まあ、そんな人たちにかかずっている時間が勿体ないと思えるほどには大人になったので、今は不要なバッテンつけて廻るようなことはしませんが、基本的には、わたしにとっての「ほんとのこと」をどうだっていいもの扱いする人のことは信用できない。音楽だって漫画だって小説だって素人のブログだって全部そうだ。気持ちの上ではくっきり、線分けして生きてきたから、だから、わたしは矢野さんの音楽やことばや笑顔や、矢野さんと岸田の繋がりとかがすきなんだなあって思った。
あと、「home」については考えさせられるというか、結婚していろんな基準を修正する必要が出てきて、その上でもちゃんと「自分が自分でいられる場所」を確保できているか? っていうのを考えてじっと手を見たな。他人として育った人と暮らすためには、自分が自分がって言ってたら難しい訳で、相手に合わせてしまえば話は早いし、勿論合わせる必要があるところもそれなりにはあるんだけど、でも、合わせるだけ、合わせさせるだけでは違うんだなあって。日々の暮らしにまぎれて、なんとなくどっちかが我慢することでうやむやにしちゃうこともあるけど、自分が絶対に大事にしたいこととか、譲れないこととかが分かっていれば、多分それ以外はいくら譲ってもかまわない訳だから。どっちにしても、自分を正当な方法で大事にしてあげないといけないんだな、って改めて思った。ちょっと背筋延びましたうん。
カヴァーについての基準の話も面白かったな、関西人の…ってそれきっと岸田だよねーと一緒に観てた夫と笑ったんだけども。映像でも、くるりと競演した2004年のさとがえるの「N.Y.C.」が流れていて、クリストファーが抜けた直後のくるりのバッキングで歌うアッコちゃんに大層ニヤニヤさせていただいた、岸田がずっとベース向いて客に尻を向けていたよ…あんな感じだったっけね? わたしが初めて生でくるり観たの、あの映像の翌日でした。2日あるさとがえるのうちの初日は白シャツだったのに、翌日は半ズボンですごいがっかりした記憶がある…ってどうでもいいですね、ウフフ。
佐野さんが、「同性への強烈なエール」というようなことを言って例に挙げていた「GO GIRL」という曲は、わたしが37年のこれまでの人生で一番ひどい目に遭った失恋のあとに、7kg も痩せながら必死で聴いてた曲だったなー、ということを、随分遠い記憶として思い出していました。曲を聴いても他人事みたいにその頃を思い出せて、時間が経つっていうのはすごいな、その間ずっと歌ってきてくれたアッコちゃんはもっとすごいな、と改めて。あの頃、この歌にほんとうに、ほんとうに励まされたんだよ。忘れてないけど、忘れていられることが嬉しい。その間、アッコちゃんの音楽をずっと聴いてこられたことが嬉しいなあって。
ともあれ、とても楽しかったです。翌週はワークショップとのことでさらに楽しみ。そして、ますます音博が待ち遠しくなってきた次第です。