サッちゃんの明日(2009.10.01/世田谷シアタートラム)

とにかくもう、すっばらしかったです。10年前の松尾スズキが帰ってきた! と途中まで思って観ていたけど、ラストは前と同じとかじゃなく、ちゃんと紛れもなく「今」の作品で。そこがね、またすばらしかったなあと思う。
下町の蕎麦屋を切り盛りしている30手前の独身、サッちゃんを主人公とした物語。サッちゃんはかわいくて性格もいいけど、家庭には破綻があって、幼い頃の怪我が元で片足を引きずっている。あと、飲食店を仕切っているのに味音痴。サッちゃんの幼馴染の、脳性麻痺を抱えながら不動産のセールスでいい成績を収める沼田は、そんなサッちゃんの味覚の欠損を「神様がバランスを取るために与えたハンデ」と呼び、彼女の足の不自由さから「こっち側の人間」として近視眼的に愛している。
彼女の足に傷を負わせた幼少期の事故は、被害者から支払われた慰謝料によってサッちゃんの父を狂わせ、母と祖父を狂わせた。結果、母と祖父は遺書を残し、店を捨てて駆け落ち出奔、父親に女房を寝取られた父と、嫁に亭主を寝取られた祖母は、肩を寄せ合い、ぼろぼろになった家庭の状態に気付かない振りを必死で繰り返している。そんな蕎麦屋に、新しい人間が訪れる。前科を持つ調理師志望者、リコーダのうまい狂女、沼田の後輩の不動産会社の御曹司、死んだはずの幽霊みたいな女。さらに高校時代の先輩、PJ がダンサーとして成功を収めて街に戻ってきたという噂が流れ、ダンサーを志す幼馴染のつぐみと彼を訪ねたサッちゃんは、道灌という名の怪しい男と出会う。彼らは、いろんなものに目を塞いでいたサッちゃんの生ぬるい日常を揺すって、穴だらけの障子みたいな彼女の人生を暴き、彼ら自身も穴だらけの障子みたいになってゆく。
…とまあ、そういう、大変にしんどい物語でした。因縁の糸が絡まってもつれて身動きができなくなって、そこから逃げるためにお金を欲して、それでも結局逃げられなくて、だけどエロサイトに耽溺したりセックスしたり他人を見下して差別したりもするし、毎日は繰り返しちゃうし、死ねない以上は生きてゆかなきゃならないし。そーいう、にっちもさっちもいかない息苦しさを、どたばたした表現でテトリスみたいに積み重ねて描いてゆくってのは、正に14年前初めて松尾さんの芝居を見たときの感触そのまんまで、本当に本当に、涙が出るくらい懐かしかったです。実際ちょっと泣いてしまったもんな、最後が近くなった頃、ああ終わってしまうんだと。そんなに、首までどっぷり浸かって芝居の世界を楽しんだのなんて久しぶりでした。幸せな時間だったなあ。
でもこれは、「昔の松尾さんの作品みたい!」ってことだけで両手を挙げてただ喜んでいるっていうんではなく、95年に松尾作品を初めて観てガーンてなった衝撃を、もう一度味わえたという嬉しさなんですよね。懐古ということではなく、新しく衝撃を受けた喜びが大きい。だから、昔から観てるという自慢とかじゃなく、わたしが受けた衝撃を、今大人計画に関心を持って劇場に足を運んでいるたくさんの人たちと共有できることが嬉しい。描かれていることは幸せとはほど遠い、不幸のミルフィーユ、みたいな話だけど、この作品を観られてわたしは幸せだなあと思った。そういう気持ちは本当に久々でした。
と、「昔みたい」って連呼してますが、以前とはっきり違って感じたことが2つあって。1つは覚せい剤で、パンフを読んだら松尾さんは時事ネタのつもりで盛り込んだ訳ではなかったらしいけど、タイムリーすぎて気持ちが悪いというか、ここまで直截的な描き方は以前の松尾さんの作品にはなかったと思うし、もうちょっとファンタジックなものに転換して現実を暗喩してた印象が強い。これは、覚せい剤だけじゃなく、ここで描かれている不幸全般的に言えることかもしれないけど、要はそういう、カリカチュアしたやり方じゃ太刀打ちできないくらい、現実の闇が(観客のような)普通の暮らしをしている人にまで迫っている今ってことな気がして、とても暗い気持ちになりました。
もう1つ、ラストのほうで「日本幸せ追求党」が有権者の危機感を煽るため、北朝鮮から核弾道ミサイルが発射されたというにせ報道番組を流したシーン。あれを観て、「エロスの果て」とかで「隕石」だったものが、明確な隣国の脅威に差し替えられていることが結構な衝撃でした。かつて、松尾さんの作品によく出てきていた隕石は、破壊をもたらすものでありながら、ある種の救いをもたらすものでもあったんですよね、いろんなことを終わらせてくれる訳だから。それが北朝鮮からの核攻撃になっていて、テレビ放送がスクリーンに大映しになったのを観ていて、わあ怖い怖い、なんて最低の種類の救いなんだろう、救いだけど最低だ、わあ怖い怖い、と肩に力を入れてガチガチになって観ていたら、その最低の救いですらもにせものだったっていう結末で。なんかもう、逃げ場がなさすぎてつらいし、徹底的に救いがないなあって思って、力が抜けて泣けてきた。
でも、そんな風に、10年前よりさらにキツい話でありながら、この物語がすばらしかったのは、10年前よりもさらに、「それでも、明日も生きてゆくしかない」ってことが明確に描かれていたところでした。道灌なんてさ、以前の作品ならきっと、周囲巻き込んで死んでたと思うんですよね。ガムテをびっ、てやってサッちゃんのお母さんと一緒に逃げて行く姿の格好悪さとか、胸がぎゅーってなりました。皆、死ぬのも怖いし痛いのも怖いし、気持ちよくなりたいし愛されたい、それだけなんだなあって。だから、明日のことは明日考えよう、とにかく今はひたすらごはんをかっこむんだ、っていうラストが、以前よりもずっとずっと実直で切実で、気持ちにすとーんと迫ってきた。わたしも年を取ったからっていうのも多分あるんですが、20代の頃なんてね、ごはんの大事さ全然分かってなかったし。リアルで、しんどくて、やさしい物語になっていて、とても、とても響きました。
…あ、「やさしい」と言えば、サッちゃんが沼田に「自立したって、わたしは沼田くんとはないよ」って言ったあと、沼田がサッちゃんを芝居に誘うシーン。確か、その芝居は「俺たちみたいな障害者を舞台に登場させている」と沼田が言って、障害者をありのままに扱う、この劇団の主宰の人はきっと「すごくやさしい人なんだよ」って言ってたと思う。こういう、障害者を普通の登場人物として作品に登場させる、っていうのは松尾さんの昔のテーマのひとつで*1、それは若かりし頃の松尾さんの真実を切り出す強い力の象徴でもあり、露悪的だと批難される弱みでもあった。よくもわるくもそういう要素ばかりに耳目が集まってマスコミ等で話題騒然、っていうのはリアルタイムで見て来たので知ってるんですが、それをね、「やさしい」っていう表現は、当時誰もしてなかったと思うんです。なんで、こんな怖い言葉がこの自虐ギャグの中に出てくるんだろう? とすごくどきっとした。
こんな怖い言葉を、一体どこから持ち出して来たのか。もしマスメディアではない場所で当時の松尾さんに向けられた言葉なのだとしたら痛々しいし、誰にも言われていない言葉を自分の中で引き当てたんだとしたら、こんな言葉を自虐にもなりえる形で振りかざせる松尾さんの内なる修羅のすさまじさが怖い。久しぶりに、松尾さんのこういう「怖さ」を実感しました。松尾ちゃん松尾ちゃん言っておじいちゃん扱いしていいような人じゃなかったですよ、って、まあ今後もするんですけどねきっと…。
…と、何かこう、ぐるぐる書いてますが、感じた高ぶりの1パーセントだってうまく書けやしない。うまく言葉にできないから、どんどん言葉を並べてしまっていて、でも言いたいことが全然書けていない状態。とにかく、松尾さんがこういうところに戻ってきてくれたことが嬉しい。もう一度、松尾さんの作品でこういうぐわーって気持ちになれたことが本当に嬉しい。そういうことです。
今回、チケット1回分しか取れてなかったんだけど、それも10年前の芝居の見方みたいで丁度いいなと思った。何度も観て見慣れて、勝手に陳腐化して扱ったり、作品そのものより個々の役者のコンディションに気を取られるような見方をするのにふさわしい作品ではないからね。今日びは皆、客がすぐにテレビで放映しろだの DVD 出せだの言いますが、本来は芝居ってその場限りのものだし、その場限りをどれだけ研ぎ澄ますかが勝負な訳で、そこでこれだけの勝負をしている松尾さんを感じられて本当に嬉しかった訳なので。だから、出すなら戯曲本がほしいなあ。頭の中で反芻したいです何度も。それくらい、本当にすばらしかった。
と、作品全般に大したことは言えないまま、役者についても少々。少数精鋭で皆とてもよかったです。サッちゃんを演じたのが鈴木蘭々で、まーシアタートラムっつったら200人ちょっとの劇場ですから狭くて、至近距離で見る蘭々の細さ、白さ、かわいさたるやものすごかった。多分この身体性が、サッちゃんの空っぽさの表現には必要だったんだと思うんだよなあ、松尾さんのあて書き番長っぷりが大爆発、道灌に殴られるところなんて人形みたいでホント最高だった。
その道灌を演じた宮藤さんは…あれ地毛だよね…? っていうのが気になって気になってもう。(えー)「マシーン日記」とかで松尾さんが阿部さんに託してきていた暴力性を一手に負わされた役という印象を受けたんですが、普通にね、芝居中にすぐ笑っちゃう人だからねえ。そこがちょっとなあ、と諦め半分で思いました。なんかあんまり怖そうじゃないというか。でも、あの細長い手足で暴力を振るう姿はよかったです、だらしのなさとかでたらめさとかが、そういうのがここまでそぐっちゃう身体を、なんでああいう人が持っているのかなあ、と改めて感嘆。なんかね、今回は珍しく、宮藤さんという役者に対するわたしの思い入れがあんまり入り込む隙間がなかった。素をあまり感じさせない芝居をしてたってことなのかな…皆川さんと絡むときだけむわっと宮藤臭が漂って、そっちに違和感覚えました。「大事なことに気付けない奴ほどどーでもいいことはすぐ気付く」みたいな台詞とかよかった、柔らかいところを捻りあげられたようにぎゃって染みた。
その皆川さんですが、松尾さんに唾を吐きかけられているのを観たときに覚えた自分の内心の盛り上がり方に死にたくなったね、わたしは…松尾さんにしても宮藤さんにしても、この2人が芝居中に絡むシーンで必ず何かしかけないではいられないというのが、ファン心理をよくご存知で! という感じ。でも、今回はすごくいい役だったなあ、皆川さん、いい役やらしてもらえるようになったんだなあ、とか思ってしまった。すみません何様。結構核心つくこと言う役で、「大事にされてこなかったから、この先大事にされても理解できない」だっけ? 最後に「好きな人ができた」って、結局誰だったんだろう、と思ってあとで考えておばあちゃんだっていうのがわかって、ああ! ってなった、サッちゃんにしつこくおばあちゃんのことを訊いていたのも老女専だったからかと。痴漢も老女相手だったと思うと業が深く、より切ない。デブで前科者だけど、現実的でいい役でした。
小松さんは、おばあちゃんも沼田も本当によくて圧倒された。いい役者さんだー、とビリビリしました。まず沼田の、脳性麻痺で口が引き攣れている喋り方で、ちゃんと全部の台詞を客に届けるように喋るという技術がすごいし、その技術が「芝居」を壊すものじゃないのもすごい。普通あの喋り方で発語すんのは、全体のバランス崩すくらいリキ入らないと難しいと思う。それを、普通にこなしているように見えるやり方でこなせるというのは、本当に技術がないと無理なのではと思うので。すごいなあ、と感激しました。おばあちゃんもね、実はボケてるというのが、後で「えー、ないない」って思っちゃわないバランスが絶妙で、物悲しくてたまらなかった。
源ちゃんは、「わたしのことを好きな人なんて気持ち悪い」と最後にサッちゃんに言われてぐらぐらしてるところが一番よかったです、ばかみたいで。やっぱりなんか、彼は放っておくとおっとりした、善良なだけの佇まいに見えてしまうんですよね。だからちょっと喰い足らないというか、今回のゴローのように複雑な経緯を持つ人間が、身勝手な理論でサッちゃんに思い入れるというゆがみが、立ち居振る舞いから滲むようなタイプの役者ではない。実際の源ちゃんのパーソナリティはさておき、少なくとも、芝居をしている源ちゃんは、業を抱えた人には見えないから、その落差を見せるようなシーンが必要だったのかなあと思った。そういう意味で、全体通してちょっと弱かったです。最後に、その清算をするよーなシーンがあってよかったという話。
松尾さん、家納さん、猫背さんは相変わらずどなたもお達者、という感じで、特筆すべきところは感じなかったかな。まあホント、役者個々の能力がどうこうという話より、やっぱり、作演出としての松尾ちゃんの存在感をどかーんと感じた作品でした。その作品世界に寄与すべく、役者は皆ひたむきに演じていてすばらしかったと思う。それだけ、作品じたいのほうが強い作品だった。
そういう作品を、あんなに小さな劇場でやったということ、そのチケットが手に入って劇場で観られたことをありがたく思う。隣の席の男が笑いたがりで、しかもものすごく笑い声が大きくて、変なところで笑ってたりもして少々いらっとなったりもしたけど、そっちに意識を逸らすのが勿体なかったから、今思い返してもあまりその人のことを覚えていない、ってくらい。きっとこの作品を、5年後、10年後に何度も思い出すと思うな。その回想に耐えうるだけの、いい作品を観せてもらいました。本当にありがとう、松尾さん。これからも何卒。

*1:印象的なのは確か松尾さんの最初に出したエッセイ集でだったと思うけど、「男女七人夏物語があれば、障害者や在日朝鮮人が1人ずつくらいはいないと割合がおかしい」って書いてたこと。