歌舞伎座さよなら公演 十二月大歌舞伎 昼の部/歌舞伎座(2009.12.18)

さよなら公演はすごい人気なので、チケット取る前から尻込みしていたわたしは、そうか、もう今の歌舞伎座行く機会ないんだな…とすっかり諦めて寂しく思っておりました。そこに入った宮藤歌舞伎の報。急遽引っ張り出したやる気で取った2階席(初)(ご祝儀感覚です)で平日に観て来ました。3階席は安いけど狭いからね…2階席は3階よりよっぽど快適だったけど、それでも11時開演、終演16時すぎは充分長く感じたよ。

操り三番叟

知り合いが踊ったことがあるので楽しみにしてました。翁を獅童がやっててびっくり。そういえばこの日の朝、NHK の「生活ほっとモーニング」に獅童が出てるのをお化粧しながら見てたのだけど、2時間後に自分が客席に座って、さっきテレビに出てた人が顔作って衣装着けて踊ってるのを観ている…という生々しさが面白かったです。歌舞伎って遠い世界のものに思えて意外と、毎月、殆ど毎日やってるし、出演してる役者は昼夜とも出てるし、客との距離が「近い」類の芸能なんじゃないかと思うのよな。まあこれはわたしが日舞をやっていて、業界が繋がってるから思うことかもしれないんですけど。ただ、わたしは獅童の踊りはそんなに魅力を感じないので、フーンて感じでのんびり観てました。
一方、鶴松くんの千歳はきりっと若々しくて素敵でした。前に野田版鼠小僧の初演の映像を母と観たとき、鶴松くんのことを散々、「この子が怪しいのよ!」「歌舞伎の家出身じゃないのに達者すぎて気持ちが悪いの!」「勘三郎の部屋子なんだけど、隠し子じゃないかともっぱらの評判なのよ!」と騒いでたのを思い出したけど、まあそれもよくあることだよな…と思ったことを思い出したりして。だとしたら実子と外腹の子が同じ舞台に立つんだから怖い世界ではありますが、ともあれ、そういう話が出ても違和感ないくらい、鶴松くんはどっしりした感じでよかったです。
勘太郎くんの三番叟と松也の後見は、息が合ってて見応えあってよかったです! 三番叟はホントに身体が出来てる人じゃないと、あんな風にふわっと飛んで見せたりできないんだけど、勘太郎くんは後見にひょいひょいと持ち上げらてるように見えるだけの軽やかさがあって、おどけた踊りの上手さもお家芸だなあと楽しかった。三番叟は操り人形だから足踏めなくて、後見がダダダン、と踏んでリズムを取って、それに合わせて三番叟が踊る、というコンビネーションが見所になる訳ですけど、松也の後見は前に出すぎず、でも存在感があって締まって見え、すごくよかったです。最初の、突っ伏した状態の三番叟のだらりと垂らした手の上で、後見が糸をくい、と引いた瞬間、三番叟の腕がぐーって持ち上がる、見えない糸を見せるパントマイムみたいな芸も、日舞では全部、音の拍でやっているので、若くて耳がいい、身体も利く2人ががっつり組んでやってる感じがはまってて楽しかった。
さよなら公演だからっていうのもあると思うんだけど、あんまり普段歌舞伎観たことないらしい年配の方も結構客席にはいて、皆、勘太郎くんの一挙手一投足に「ふおおおお!」と感嘆の声を上げていたのも笑ってしまいました。すぐ前の列にいたおばさま方とか、「あらやだ!」なんてきゃっきゃ笑っててかわいかったなあ。普段、いわゆる「演劇」の芝居(とか、あとはラーメンズとかね…ハハ)の「緊張して観るのが当たり前」の劇場体験しかしたことがない人は、歌舞伎座のこの客席の感じにイライラしたりするのかもしれないけど、これくらいの心持ちじゃないと5時間とか観られないし、別にいいじゃんとわたしは思うんですよねえ。客席の飲食だって許されてる訳だし、芝居の最中も客席結構明るいしね、演目にもよりますが。そういうことより、邦楽の発声の素養もない若い女性が、粋がって下手くそなかけ声かけたりするほうがよっぽど恥ずかしいことだと思うから、あんな風に客席を沸かせた勘太郎くんの勝ちってことでいいんじゃないか、と思いました。楽しかった!

野崎村

お染久松もの。有名だけど、歌舞伎で観たのは初めてかも。うんと子供の頃、7歳とかそれくらいのときに、日本舞踊で「お染久松」を踊ったことがあったんだけど、当時は心中物の意味もよくわかっていなかったので感慨深かったです。この演目では、お染と久松はお光の献身的な行動のお陰で心中を思い止まるわけですが、結局その後心中した…ってことになるのかな? それともパラレルワールド的なことなのか。いずれにせよ、劇中で「久松」「お染」と名前が出てきた瞬間、あっ! てなってニヤニヤしてしまった。
これは単体での感想よりも、「大江戸〜」との対比で振り返ってしまう部分がありました、歌舞伎の中でも現代劇に近い演目ってこともあって。ラストシーン、廻り舞台で現れた土手のセットで、水路と陸路に分かれて出立するまでのあの間とか、歌舞伎でしかありえない要素がたっぷり詰まってて楽しかった。ま、そのへんは「大江戸〜」の感想で改めて書くとして、野崎村、福助のお光がぶっちぎりによかったです、板付きのシーンの可憐さなんてもう身震いするほどでした。にっこり。

身替り座禅

やあ、笑った! 勘三郎の右京がバカで下品で芸人さんみたいで笑っちゃう感じがたまんなかったです。これ観たあと母と話してたら、「花子と逢引した右京が、小袖ひっかけて花道を千鳥足で戻ってくるところあるでしょ? あそこ、勘三郎だとお笑いみたいになっちゃうけど、菊五郎の右京はすっごい色っぽかったのよう!」と力説していて、確かにイヤフォンガイドでも「男の色香が…」なんて解説してたんだけど、勘三郎は色香っていうより志村けんみたいでホント笑ってしまったという次第でした。染五郎も笑える芝居に持ってゆきがちだし、全体的にコメディタッチが過ぎるギリギリんところだったかなあと。まあ、そういう演目なのでいいんですが、前に勘太郎くんが右京やったの観たことあって、彼のほうが色気を感じさせてた気がします。親子だし、声とかホント似てると思うんだけど、面白いものよねえ。にやけるなあ。
あと、「山の神」=奥方、っていうのはこの演目から来てるんですかね? 俗語として前から知ってたけど、子供の頃にこの演目観てたってことかもしれない。わたしは、両親のそういう教養を強要されて反発して育ってきているので、いろいろ知識や環境を無駄遣いしまくってるのだわ。大人になったあとのわたしはこの、山の神は女性の役なのに男形の役者がやるのが慣例、とか、歌舞伎のそういうくだらないところがたまらんと思うようになりましたフフフ。

大江戸りびんぐでっど

えーと、色々思うところがあった演目で、一番大きく残っている感想は「勿体ない」。歌舞伎座で、歌舞伎役者が演じる演目として見たら、これじゃあ勿体ないおばけが出るよう…!って感じでした。
まず、「何やったって『傾(かぶ)き』の精神があれば歌舞伎だい!」という考え方があるのは分かるし、それはそれで構わないとは思っているんですけど、内容云々以前の物理的な問題で気になるところが多すぎた。客席に聴こえる音がぐっちゃぐちゃで、今の歌舞伎座ならではの、3階席まで役者の声がどーんと届く天然リバーブを全然生かせていない…というか、むしろ殺す方向に行っちゃってた気がして、観ててソワソワしてしんどかったです。台詞が多すぎるし、劇伴の音量が大きすぎるし、台詞書くときに効果音のこととか考えてないから音被りがひどくて台詞聞き取れない。どれも残念でしょうがなかったです。
台詞が多い、っていうのはもう、歌舞伎のフォーマットを無視した作品だからとしか言えないなあと思う。野崎村と比較すると分かりやすいんですけど、歌舞伎って幕が開いたら情況説明なしでいきなり芝居が始まる演目が多いんですよね。それが許されているのは、文楽などの既知の題材や史実を下敷きにする、っていうフォーマットだから。でも、今回のこの演目はそういう下敷きにするものが何もない、「完全オリジナル」のホンだったから、全部の場面で情況を台詞に盛り込まざるを得ず、結果、台詞がやたら多くて、役者は常にまくし立てる芝居になるから、せっかくの歌舞伎役者ならではの「声」が活きてくる場面がない。わたしは、歌舞伎っていうのは、役者の一番いい芝居をたっぷり楽しむための装置だと思っていて、一番大事なのは役者のよさが表に出ることで、だから山場の芝居はたっぷりとした台詞廻しで、そこに込められている心情を客席と共有できるような芝居が入る隙間がなきゃいけない、って思ってるんですけど、宮藤さんが書いた山場にはそういうけれん味が足りてなくて、大向こうから声が飛ぶのに相応しい、ここぞ! っていうようなタイミングも作れてなかったと思う。つくづく、ああ、勿体ないなあ、って思いました。
劇伴の音量の大きさについては、舞台上にいる人数の多さとも関係があって、そもそもなんであの人数の歌舞伎役者に洋舞を踊らせたのかなあ、というのは最大の謎なんですけども。洋舞だからダメってことはないし、向井ちゃんの歌声が大音量であの小屋に鳴り響いた瞬間のカタルシスがなかったとは言わないけど、役者の生の「声」を機軸に芝居を考えたら、ああいう大音量でドカンと鳴らして大勢でわーって踊る、というのは、勢いは出るにせよ、地の芝居とのバランスを壊すものに決まってるのになあ、って思う。そういう面で、普段宮藤さんがやってる芝居とのハード面での落差に対する配慮が足りてないところが多いなあ、という風に感じられました。具体的には、ピンマイク使えるかどうかとか、客席に向けたスピーカーがあるかどうかとか、っていう小屋の特長の落差や、地方(じかた)の演奏する邦楽の生の演奏の音量と、大人数で踊るときに全員にビートが届くように流す音楽の音量のレベルの落差、そういう細かいことが、いろいろ雑に扱われているような気がして勿体ないなあと。
あと、効果音については、ホントに全然知らないのかなあ…ってちょっと首を捻ったんですが、歌舞伎や日舞ではたとえば、「どんどんどんどん…」っていう音がしている場面は水の近く、っていう決まりごとがある訳で、今回も新島の話を回想するシーンになるとその音が鳴ったりしていた訳です。そこが全然計算できてないように観えたんですよね。だーっと説明台詞が被って全然聴き取れなくって、うーんって思いました。その効果音がする=海に囲まれた島の話、って客席は理解できるってことにして、台詞を減らせばいいのに、っていう、そういう、「歌舞伎としての約束事をもっと利用すればいいのに!」って思うことが多くて、どうにも釈然としなかったんですな。まあ、知っててそういう風にしたのかもしれないけど、だとしたらそれこそ「勿体ない」だなあって。
とはいえ、こんな風に文句書きながらも、しょうがなかったんだろうなあ、とも思ってるんです。イヤフォンガイドでの勘三郎との対談でも宮藤さんは「歌舞伎だからって気にするとキリがないから、一切気にしないようにした」みたいに言ってたし。勘三郎に請われて執筆を受諾したものの、歌舞伎のフォーマットや素養、前提知識を身に着けてから書くには時間が足りず、だったら完全に素養や前提知識から離れたところで勝負する、っていう判断で、完全オリジナル、洋舞ありの作品にしたんだろうと思います。その選択自体はしょうがなかったと思うけど、でも、わたしはもう少し歌舞伎っていうものの特性を宮藤さんなりに活かした、「宮藤歌舞伎」って言えるような作品を期待してたんですよねえ。だって、宮藤さんのそういうアレンジ能力ってホントすごいんだもん。「タイガー&ドラゴン」での落語の換骨脱胎みたいに、本質を捉えた上で、宮藤さんにしかできない肉付けをしたものが観たかった。時間とか時間とか、どんな理由があるにせよ、最終的にそういう方向で作るっていう選択に至らなかったということが、そもそも残念でしょうがなく思えたオオモトだなあと思います。
…と、「歌舞伎として観たときに残念だったこと」に終始してますが、いやいや、歌舞伎だと思わなきゃいいじゃん、って考え方もあると思うんですよね。わたしが勝手に、「宮藤『歌舞伎』」を期待しただけなんだし、宮藤作品の新作としてフラットに観て楽しめばいいじゃないかと。でも、残念ながらこっちの見方であっても、今回の作品はイマイチだったな、と思ってしまったので、勿体ないの二乗という感じだったのでした。
歌舞伎云々を抜いて考えた場合、残念の源は「1時間40分の配分がめちゃくちゃ」ってことに尽きまして。使い捨て労働者が孕む問題への啓発とか、自分の嘘に騙された嘘つきの悲哀とか、物理的には生きているけど精神的に死んでいる人間と、物理的には死んでいるのに精神的には生き生きしてるゾンビとの対比とか、描きたいんだろうな、ってことが盛りだくさんすぎて、結果的には全部半端な描き方しか出来てなかったように感じられたのがなんとも。あと、七之助が演じたお葉のキャラクターがものすごい雑だったなあと…なんか昔のウーマンリブ観てるみたいな気持ちになったんですよねえ、女性が雑すぎて全然行動原理が理解できない感じが。お葉が亭主をどう愛してたのか、亭主が死んだときにどう感じたのか、どういう気持ちで江戸に来たのか、そこに入り込んできた半助にどうしてほだされたのか、どれももう、全っ然と言っていいほど伝わってこなくて、七之助がひたむきに芝居しているから余計に勿体なーい!って思えてしまいました。男が演じてまで女性を出すんだから、もうちょっと女性の「女性らしさ」を、虚像でもいいから見せてもよかったんじゃないのかなあ…まあこれは「歌舞伎として」見たときの感想ですが、そこを離れてもなお、お葉の造作の雑さ、子供がほしいと言い出す唐突さやなんかは、物語的な感情移入の余地が殆ど見えず、「うう、ないなあ」っていう感じでした。
あと、構成に難を感じまくった。どんでん返しというか、勘三郎染五郎に引導を渡すお寺のシーン、あそこがクライマックスでも構わなかったと思いました。なんでその後に橋の倒壊なんつう大変なシーンを持ってきたのだろう…と今でも謎でしょうがない。そもそもねえ、あのみっちりと要素の詰まった芝居を、11時からずっと客席にいる人間に1時間40分も見せるのはちょっと酷ってもんじゃない? 台詞も多いし、お寺のシーンの緊張感で集中力使い果たしたところに、ホントのラストシーンが来るっていうあの構成、観てるわたしには結構つらかったです。またラストシーンの板渡しがこわくてさ…ちゃんと、いろいろ配慮してやってるのかもしれないけど、あんなの実際に板渡さなくても表現する方法はいくらもあると思うんですよ、芝居なんだから。そこを愚直に、板の上に女形を乗せてぐらぐらしてる芝居をさせるなんて、ちょっと見てられん…ってしんどくなりました。
ネットでちらっと感想検索してみたら、この演目に腹を立ててる歌舞伎ファンの感想を見つけたりもしたんですが、そこで問題にされてたのは「差別的な表現」「過剰な下ネタ」「下品さ」やなんかだったんですよね。わたしは正直そこはどーでもよくて、ただ、「歌舞伎」としてやってみてほしかったなあ、というのと、「歌舞伎」としてじゃなく見ても内容的に勿体なかったなあ、というのが大きかった。芝居としてちゃんと成立していれば、「差別」「下ネタ」「下品」っていう批難に対してもカウンターとして意義を提示できたんだと思うんですが、今回、わたしはこの演目がそこまでのものだったとは思えず。伝統と格式を重んじる歌舞伎の世界で、何も分かってないのにこれ見よがしに禁忌を破っていい気になってる若造、みたいに見られかねないスキを、山盛り残した作品だったところが本当に残念でした。宮藤さんホントはもっとできる子なのに! みたいなね…ハハハ(力ない)。
と、文句ばっかり書きましたが、多分わたしの一番頭が固い部分に抵触したから、こんなにネガティブな感想ばっかり出てしまったんだと思います。3つ子の魂おそろしや。でも、わたしなんかより全然歌舞伎に詳しくても、存分に楽しめたよー、という人もたくさんいただろうと思うし、それをおかしいと思うとかってことではないのでした。ただ、わたしはひたすら「やっちゃった!」「勿体ないな!」って思ってしまっていて、その理由を考えたら、上記のように膨大な文句が次から次へと噴出したという次第でした。宮藤作品にここまで納得できないの、わたしにしてはすごい珍しいかもってレベル。とにかく、残念でした!よ!