クワイエットルームにようこそ

公開からもう結構経ちましたが。
一般公開前にぴあ主催のティーチイン付試写会にお友達のご厚意で寄せてもらったのに、それだけでは飽き足らず公開初日に劇場で2回。何故かって? 宮藤官九郎登壇の舞台挨拶が2回あったからだよ? 3回あれば間違いなく3回観てましたがそれが何か?(キリリ
っと、相変わらずなトーンでお届けします。何故今になって感想を? つったらば、これら、客前でこの映画について語る松尾スズキ監督はいつも、「今はいい時代で、あなた方のような素人でもこの映画を宣伝する方法がね、ミクシとかブログとか…」とにっこり笑ってらしたからです。オラがミクシは「友人まで公開」じゃけん。イエス、アイワナビーユアドッグ。松尾ちゃんの犬になら喜んで(こないだ松浦理英子犬身」読みました)(それだけです)。
一言で言えば、「映画」として観るのか、「物語」として観るのかによってリアクションが分かれるなーという感じ。前者で見ればものすごくよく出来ている(ただし留意事項あり)(後で述べるぜ)と思うんだけど、後者、物語世界としてはなんか、入り込める人と入り込めない人に分かれるんだろうなあと。でも、それは松尾作品の常という意見もきっとあるだろう。その中ではむしろ、入り込みやすい要因のある作品だったように思うけれども。
あのね、ティーチインで松尾さんがこんなことを言っていて。

「女性が、自分のうっとおしさに向き合う話にしたくて」
「女性ライターだったら周囲に何人もいるから、どんな感じかよく分かったし」
「それに、女性ライターって大抵28歳じゃない? だから」

「女性ライター28歳説」に思わず噴いたんだけど、実際、30手前くらいまでライターやってました、みたいな女性って世の中に多い。世の中というか、少なくともわたしの周囲にはいっぱいいる。
この「ライター」は多分、デザイナとかモデルとかカフェ店員とか本屋店員とかに置き換えてもいいと思うんだけど、要するに、特別な修練を積まなくても、スタートラインはなんとなく、とかでも、運とか人当たりのよさとか周囲の人の面倒見のよさとか勘のよさとかで「それなりにやれてる」感じを得られる職業、ってこと。ほどほどのレベルなら、長期展望がなきゃ耐えられないような下積みとかがなくてもやれちゃうこともあるから、人によっては気軽な感じでずるずる続けて来てたりするような。しかも、その職に就いてることでちょっと優越感感じてたりするような。そういう感じ。
でも、女性って、30前後で結構いろいろ突きつけられるようになっていて。「若い女の子」な間はできただけで褒めてもらえてた仕事も、いつの間にか「できて当然」になって来たり、満員電車の中でも、「若い女の子」だからと庇ってくれてたおじさんたちが平然と突き飛ばしてくるようになったり。タメ口利いてりゃ親しみの表現だと思ってるのかと疑いたくもなるようなお洋服屋の店員が敬語で顔色伺って来たり、20歳の美容師さんがブローの間の話題に困っていたり。
恋人がいなければ、己の老後に思いを馳せて、単身のまま生きるならばとマンション購入を思い立つも、ローンを組むのが難しいフリーランスの我が身にうんざりしたり。娘の夢の実現のためにと毎月家賃の一部を補助してくれてた父親の定年が気付けば来年に迫っていて、思わず自分の生涯年収計算してみて茫漠とした心地に陥ったり。恋人がいれば、結婚も出産もしたいけど、彼の年収を考えたら、出産後に同じ収入が保障される状態で復職できる会社員のほうが安心して産めるなあ、とか考え出しちゃったり。
方向転換するなら今のうち、あと5年したら転職もままならない。今から計画を立てないと。この先自分はどうやって、40歳、50歳、60歳を迎える? 考えて、どうしたらいいのか頭を抱える。もしくはそういうの全部から逃げようとしてあがく。女性の30歳前後には、どこかしらでそういうスイッチングのポイントが潜んでいて、その気配に焚き付けられ始めるのが、人によっては丁度27〜28歳だったりするのかなあ、と思う。
明日香の場合、もうちょっと特殊な形でライターを始めたって設定なので、必ずしもこういう「28歳」ではないのだけど、観客って登場人物の「自分と違うところ」よりも「自分と同じところ」を探す習性があるものなんだよね。だから、この時期特有の焦燥感はなんか、20代半ばくらいから上の女性にはどこかでなんか身に覚えのあるものな気がする。そこに感情移入の糸口があって、だからわたしは、映画になってみて初めて気付いたことではあれど、明日香の年齢設定が28歳だったところについて、強烈に松尾さんの「うまさ」を感じた。すぐれた物語っていうのは、「これはわたしの物語だ」と観客に直感させる力を持っていると思う。その前提を、この作品はあっさりクリアしているなあと。
ただ、そうは言ってもこの「28歳」感って多分、女性のほうが身に覚えがあるものなんで、男性には入り込みにくいかもしれない、とも思ったんだけど、そこでやっぱり松尾さんはうまいなあ、と思わされるのが、鉄っちゃんの存在ってことでもあって。鉄っちゃんの身勝手なやさしさとか、逃げの姿勢で乗り切ろうとする弱さとか、弱さも徹底すれば強さになっちゃうようなふてぶてしい感じとか、ああいうのはすごくリアルだし、鉄っちゃんのそういうところが明日香を留められなかった理由だったのかなあと思わされるのと同時に、留められない人にじゃなきゃ惹かれなかった明日香、っていうのもあったんだろうし。その明日香と鉄っちゃんのバランスが、うんざりするくらいにリアルで、誰しもどっかでチクっとなるものだったんじゃないかと思う。
あと、これは上記の「28歳」とか、恋人との関係とかより、わたしにとっては大きく感情移入ポイントとして響いたんですが、明日香の「わたしは価値なんかない」「800字も書けないからっぽな人間」って台詞。あれって、「表現したがる人の悲劇」ということだよなあ、と思ってしまって、身体中の粘膜がチクチク痛くなる感じがした。「表現なんかしないほうが健全だ」って台詞をかつて発した人がいて、わたしの記憶の中では40%くらいの確率でそれは松尾さんだったんだけど、でも出典とかが分からないから断言はできないという状況なんですが、でも、ホントにそうだなあと。普通の人は、表現なんかしたがらなくても生きていける訳で、どうして表現しなきゃいかんのかと。表現をする人が偉い、みたいなのって何なのかと。そういう、常日頃抱えてるわたし自身の宿題に綺麗に抵触して、すごく大きな音を脳内に鳴らしたよ。
わたしが通ってた中高がなんか変わったところで、芸術家や芸能人やスポーツ選手の娘や孫とかがなんかいっぱいいて、帰国子女も早い時期から大量に受け入れていて、「皆と同じにしろ」とか絶対言わない学校だったから、色んな「変わった人」をたくさん見ながら思春期を過ごしたのね。中高生だから何をする訳でもないけど、でも文化祭とかで「つくる」ことをやったときの平均力はすごかったし、面白い子も随分たくさんいて、刺激もされたし、刺激を受けたと言ってくれる友達もそれなりにいて、気持ちがかなり自由でいられた。
大学でも芸術系の大学に行ったけど、むしろ地方でサブカル勉強してた子たちが東京出て来て知識を競ってる、みたいな浅ましさのほうが強く感じられて、正直、大学でこれみよがしにクリエイティブっぽい活動をしては声高にそれを主張している同級生たちを見て、ごっこ遊び? みたいに冷たい目で見てるところがあった。「○○(同級生)って映画たくさん観てて偉いよなー」とか本気で言ってる友達に「ハア?」みたいなリアクションしそうになったりね…職業訓練校みたいに学科もコースも細分化されてる大学だったけど、実際の現場のことなんて現場に出なきゃ分かりっこないのに、分かった振りして、学生の癖に友達との挨拶が夜でも「おはよう」「お疲れ」とか業界ぶっててちょう頭悪い、て思ってた。
卒業して、ライターとコピーライター両方やるような仕事もしてみたけど、ここでもまあ、中途半端な表現欲ってタチ悪いなーとシニカルになる要因ばっかり見つけてしまって。社長の奥さんが更年期でおかしくなって、社員の身体的な欠陥を口撃したり、会社存続のために自宅を抵当に入れているとか暴露し始めたりしたのを潮に、一年くらいで辞めてしまったんだけど、丁度その頃、大人計画の舞台を初めて観て、松尾さんの「表現するなんて恥ずかしいことだ」って自覚の上でやってる表現、っていうのがすごくしっくり来た。95年だったと思う。や、映画の感想とは直接関係ないんだけどね。
とにかくわたしはこうやって、20代前半で、「表現したいなんて思わないほうがよっぽど健全だ」って思って、「健全」な道を自覚的に選んで、そうやって大人になった人間だっていうこと。事実、今振り返っても、大学の同級生より中高の同級生のほうが「表現」の世界で面白い活躍をしている人が多くて*1、多分、本当に「表現」をするべき人はガツガツしなくてもするようになるのだろうし、するべきじゃない人は、28歳まではライターやってられても、40歳、50歳の自分が想像つかなくて辞めてゆく。そういうもんなんだと思う。
だから、20代半ばをすぎてから、明日香が「表現」みたいなほうに行っちゃって、挙句に追い詰められてしまったのが気の毒で気の毒でしょうがなくてな…そういう明日香を、無自覚に表現したがるバカ女自業自得w みたいに他人事として思えないのは、一歩違ってたら自分も明日香になっていたんだろうな、ってひやっとする部分があるからで。つか大体、「表現なんて」と言いながら、こうやってネットで自分の思ってることを「表現」している訳だからね…だめじゃんね…結局、わたしも「表現したい欲」から逃げられないでいる人間なんだなあと思えば、明日香のことはヒトゴトだと思えないっていう、そういう話。
松尾さんね、ティーチインでこんなことも言ってた。

「明日香の『書くことがない』って言うのは自分の投影でもあるから」
「僕もね、明日、書くことがなくなるんじゃないか、ってびくびくしながら、今までやって来てる人間なんで」

松尾さんのは薄っぺらい「表現したい欲」なんかとは違うのにな、とか、ファンはバカだから気楽に思ってしまうけど、あれだけの人でもこういう不安を抱えなきゃいけないという不可解さを思えば、やっぱり表現なんかしたいと思わないほうが圧倒的に健全だ、という話であって。
だからわたしは、その不健全さの中で、その人なりの健全さで表現し続けている人たちのことを敬愛してしまうのだなあ、とも、本筋とは関係のないところで納得したりもしつつ、やっぱり、「28歳」以上にニッチな感情移入ポイントだけど、わたしはここ、相当ぐっさり刺されてしまって、明日香が気の毒で痛くてチクチクして、映画を観ていてすごくしんどかったです。ええ。
(ちなみに公式サイトの著名人コメントの中で、この「表現したい欲」みたいな部分に触れてるのは中村うさぎのみだった。なるほどな…!)
こんな風に感情移入のポイントがいくつかあって、それには多分、入院患者たちの精神疾患の症状の描写も含まれるのだろうことは想像に難くない。でもまあ、そこは触れないでおこうと思うよ、疾患を持つ人たちとどういう風に関わったことがあるのか、実際の体験によって、彼女たちの描写をどう捉えるかは違ってくるような気がするし。ただ、松尾さんはティーチインでも言っていたけど、この手の疾患を持っていて、その生活を自分から書き綴っているような人のブログ、サイトをかなり見てリサーチをしていたようで、決して想像や創造としてだけの描写ではなかったんだと思う。でもまあ、「あんなんじゃない」とか「もっと○○だ」とか「細部は違うけど大まかに見たときのリアルさを感じた」とか「ホントああいう感じ」とか、どうしたって意見が分かれると思うので、深追いはしないでおこうと思う。
でも、この話のときに松尾さんが、「そういうのを(ネットに)書いてる人には圧倒的に女性が多かった」って言っていたのはすごく印象深かったことをメモっておくことにします。確かにわたしが会ったことがある通院・入院歴のある人の中で男性は1人しかいない…いや、夫婦の両方を知っていて、2人して32条申請してたうちの旦那さんのほう、ってことなんだけど。舞台は女性専用の閉鎖病棟にしたのは故のない話ではない、ということかもしらん。
キャスティングについては、内田さんが良くも悪くもこの映画のカラーを決定付けていたなあと、当たり前のことを感じた。「内田有紀閉鎖病棟に?!」っていうセンセーショナリズム? それが広告宣伝に役立つだろうことは分かっていて、以前に松尾さんが「池津祥子が主演の映画なんて誰も観にこないだろうから」と言っていたことを思い出せば、やっぱり、収益構造考えても明日香のキャスティングを誰にするのかっていうのは、ものすごいバランスの上で行われた決定だったんだろうなーってことは想像ついてしまう。この想像が観客の反応として正しいものかは分からないけどね。
でも、明日香を内田さんにしたこの理由は、まんま、「内田さんの明日香」の限界にも繋がっていて、つまりは、「明日香が閉鎖病棟に放り込まれるほどにバランスを崩している人には見えない」ということをしみじみ感じてしまった。これは不安定さだけじゃなくて、なんというか…「人間らしさ」ってことにも繋がるんだけど、内田さんの明日香はサイボーグみたいなんだよね、顔がきれいすぎて。いや、顔じゃないな、表情? 特に笑顔が完璧すぎ。
明日香が真にぼろぼろだったら映画として観てられないものになっただろうから、だから「池津祥子が〜」なんでしょうけど、それは分かるけど、でもやっぱり、鉄っちゃんとの別れのシーンで「しゅーりょーう」って笑う明日香の笑顔は、あんなに整っていては嘘だと思ったり。彼女の笑顔はどんなシーンでもプロフェッショナルな笑顔すぎて、それが明日香の可哀想さやうっとおしさを安っぽいものに見せていたかも。「だから観られる程度の可哀想さやうっとおしさで済んでたんじゃん」とする向きもあろうと思うので、このへん、難しいんですけどねー。んー。絶妙な匙加減だった、っていう人も多分いるんだよなー。わたしの舌には少々、調味料が強く感じられてしまったんだけどもねー。んー。
その点で、宮藤官九郎鉄っちゃんはちゃんと、人間らしいダメな顔をいっぱい晒していてすごくよかった。そこでそんな傷ついた顔をしちゃ相手が傷つくのに…! って顔をね、してしまう弱い普通の人なんだよなあ、って。面会に来た最初の挙動不審さから、何があったのかを明日香に訊かれて、「ケンカ」ってキーワードに明日香が反応したときの一瞬のカットのはっとした表情になるところ、あそこの表情なんてすごくよかった。
宮藤さんの「いい顔」を撮るのに、例えば「嫌われ松子の一生」では「いい顔」を拾い集めて繋いでいたと思うのだけど、松尾さんの場合は普通の(つかむしろダメな)顔をたくさん重ねて、その途中途中にふっと、すごくいい顔を挟むから、そのいい顔の印象が際立って目に残って離れない感じになる。やっぱり、松尾さんの撮る宮藤さんはひと味もふた味も違ったんだぜ…本当になあ、あの顔ったらなあ。あああ、よかったなあ、本当によかった…!(以下ループ
わたしはよく「その世界で生きている人に見えるかどうか」というのを、舞台や映画での役者の演技(とその前提となるキャスティング)について判断するときの基準にするのだけど、内田さんは正直微妙だった。主人公だし、一応語り手(彼女のいないシーンは基本的に一度も映らない)だから、その質感を疑問視するのはおかしな話かもしれないのだけど、モノローグは意外といけてたので、そこで何とかバランス取れてたのかなーと思ったり。偉そうで申し訳ないんですけども。
観てて、内田さんに最初に「うーん…」と思ってしまったのは蒼井優ちゃん演じるミキとの会話のシーンで、「そこまであなたの病気に深入りする気はないから」っていう、あの台詞がダメだったんだ…難しい台詞ではあったんだけど、ザ・台詞! みたいに聞こえてしまって。優ちゃんのミキが、ちゃんと「ミキ」として「分かってんじゃん」って受け応えているから余計、あの明日香の演劇的な言葉が浮いて、「うーん…」となってしまった感じ。勿体ない、というのは簡単だけど、その勿体なさが前提で映画の興行が成立する、と思うと…うううん、色々難しいですなあ本当に。
というか、蒼井優ちゃんは本当によくってねえ。映画のトイレのシーンのミキの印象的な台詞、「あたしが一食食べると世界のどこかにいる価値のある人の分の一食が減るシステムになっている」「そのシステムに気付いたからあたしは食べられなくなった」「あたしが狂ってるんじゃない、システムが悪いだけ」っていうようなアレ。今書き出してみて、「価値がある」って言葉が「あたしには価値なんてない」って明日香の台詞と呼応してるのか、と気付いたりもしたのだけど、あの台詞、原作にはないのよな。ティーチインで松尾さんが言っていたには、原作執筆時にもああいう感じのことをミキに言わせたかったんだけど、うまいこと書けなかったものが、映画脚本執筆時には台詞が浮かんだから書いた、ってことだったんだそうで。あの難しい台詞を、ちゃんとミキの言葉として言える優ちゃんの力っていうのはものすごいなあ…と惚れ惚れしてしまった名シーンで、蒼井優という役者への信頼感を更に分厚く積み上げることに。ふんとにいい役者さんであることよ…。
あと、この映画でのりょうの完璧さったらなくって、舞台挨拶で「この『ドS顔』を余すところなく活用してくださってありがとうございます」と本人が松尾さんにお礼を言っていて笑ってしまったんだけど、サイボーグなみの鉄仮面、鉄面皮、あのおっかなさが最高だったなあ。一番好きだったのは、明日香がクワイエットルームで目覚めるシーンで、状況について来れてない明日香に「失禁は分かりますか〜?」と言いながら去ってゆくところ。あの小ばかにした感じったらなかったなー。
大竹しのぶのおっかなさ、あれはもう、役の説得力とかじゃなくて、彼女の力技に過ぎない感じだからおいておくとしても。何故常にウイッグを? とかねえ、言いたいことは色々ある、けど、明日香の打ち明け話を聞いて泣いて、「ちょっと長くなるけど、わたしの話も聞く?」って顔を上げたときの涙と鼻水交じりの笑顔のおっかなさ、ああいうのが多少でも内田さんの明日香の笑顔にあれば、随分印象が違ったのではないかなー、とそんな風にも思ったということなのだった。
元々、登場人物少ないから、他に色々言うべき役者さんもいない気がするけど、平岩紙ちゃんの特性を120%活かしたキャスティングには心底拍手という感じで、セレブ部屋のサエちゃんが一度も完食してないということをぽつんと呟くシーンとかさ、いわば説明台詞な訳だから、きっとすごく難しい台詞なんだろうけど、ちゃんと世話焼き気質でちょっとうっかりで、きっと患者に感情移入しすぎだって婦長さん(峯村リエさんの老けメイク最高!)や鬼の江口に怒られたりしてんだろうなー、っていう、ナース山岸のキャラクターがぶわっと伝わってくるいいシーンになっていたと思うし、だからこそその後、パズルが完成した後、「おやすみ」ってタエちゃんの病室のドアを閉めたナース山岸の押すワゴンに空っぽの食器が乗っているカットと、彼女の泣き出すタイミングと…あそこがとても染みるんだよなあ、と思う。
こういうのって、役者さんの力でもあるし、脚本の力でもあるし、編集の力でもあるんだろうけど。役者は役者として、自分にできることをやるだけなんだろうけど、紙ちゃんとかりょうとか、ホント完璧だったと思うし。松尾さんのヴィジョンが明確だったんだろうなーとも思うんだけどね。すごいよかったなあ、2人とも。あの映画観て、紙ちゃんのファンになる男の子とかいればいい、って思いました。
あと、庵野秀明氏の使い方が相変わらず奮っていて素敵でした。庵野氏の最終カット、明日香がひっかけた点滴のホルダ? にぶつかってぶっ倒れた後、血がぶわーっと床に広がるところ、あの血がすごい量広がるのがおっかしくっておっかしくって、なんかもう本当に笑った。前作での出演の仕方より数段よかった。堪能した。
衣装、小道具について。とにかく鉄っちゃんの衣装につきる。ありがとう衣装さん…! と、最初にあの姿の宮藤さんの写真が世の中に出たのって、あれでしたでしょうか、「H」の日本映画特集んときでしたでしょうかね? 宮藤ファンの間を写メが飛び交い、その晩は軽く祭の状況を呈していた訳なんですが、その日以来、衣装さんへの感謝の祈りを捧げることを欠かした夜はありませんでした(嘘。
でも、実際映画を観ることができて思ったけど…鉄っちゃんは宮藤さんであって宮藤さんじゃないねー。やあ、そんなの当たり前じゃないの! って世界中から鉄針で突っ込まれそうですが、なんかこう、勝手にもちっと、宮藤さん本人そのままな感じかなあと思っていたんだった。でもやっぱり、現実の宮藤さんはああいうタイトなラインのお洋服は着ない…! と、舞台挨拶でコットンのごわっとしたジャケットに着られて、肩の位置がずれて袖口が手にぶかっと被ったのを持て余している宮藤さん本人を見てしみじみ実感、わたしが好きな人はこっちだったよ…とおもった…(もうすぐしぬのでかんべんしてください。
でも鉄っちゃん、上下はちゃんとしてるのに、旅行用のバッグがいい加減だったり、雪駄履きだったりするところがリアルだなーと思ってニヤニヤしていたんだけど、雪駄履きで、足の親指をぶつけやすくて…っていうのは、登場シーンが足のアップからで、足の親指に包帯を巻いていて、ってことからも繋がっているんだけど、明日香が最初に行った病院であの足を怪我した理由が後で明らかになる、っていうところ、ああいう細かいところが本当にうまいなあ、とため息が出た。鉄っちゃんのキャラクターで「雪駄履きw」と思わせておいて、あの包帯にそんな経緯が…! みたいな。落差っていうんですかネ? その切なさたるや相当なもので、2回目に観たとき、あの親指のアップを観て鉄っちゃんを抱きしめたくなりました(くどうじゃなくて鉄っちゃんを、ね〜)。
あと、明日香と鉄っちゃんの部屋の雑多さが大変にリアル。VTR の多さとかねえ、ああいう部屋に住んでる人いるなあ…と思った。ちょっと懐かしい気分にすらなった。明日香の衣装もよかったなあ、足をいつも出しているあの感じ。アクセサリーの多さとかも併せて、どこかやっぱりちょっと過剰なところがあるんだろうなあ、っていう、その感じがとてもリアルで、それを思うにつけ、演じている内田さんの、違うポイントでの落ち着き具合が勿体なかったかなーとちょっと思う。こればっか書いてるけど、他に違和感がなかったからつい、そこに集約しちゃうんだけどね。
蒼井優ちゃんが「衣装合わせで初めてミキの役が掴めた」と各種インタビューで言っていたけど、原作読んだときにわたしがイメージしてたミキは、あんな格好いい感じじゃなかったのでびっくりした。コーンヘッドがすごい似合ってて、格好よくて見蕩れたけど。履いてる靴の感じとかも、ガリガリな感じを強調しててうまいと思った。全般的に、ナースたち以外は衣装さんのチョイスが役の説得力に繋がってるように感じたなあ。
映像的には、クワイエットルームの白がすごく綺麗で印象的だった。病棟の中も、娯楽室とかの色味が多いところと、病室とのコントラストがうまいなあと思ったり。コントラストってことで言えば、基本的には、回想と現実(病棟内)のシーンが交互に出てくるんだよね。おかげですごく時間(描かれている時間)の経過が早く感じた。原作読んでる状態で観たんだから、何が起こるのかは知りつつ映画を観たんだけど、それでも「あれ、もう退院?」って感じで、スピード感がすごかった。
あと、原作よりも、ミキと明日香の関係がしっかり描かれてたなーというかんじ。ミキが一番最初に「佐倉さん」って呼びかけてたのが「明日香さん」になって、パズルをしてるところにチリチリが乱入して「お姉さん、すっごいじゃーん」って騒ぐとき、一瞬「そうだよ、明日香はねー」って自慢げに言って、でもすぐに口ごもっちゃうところ。どんどん気持ちの距離が縮まっているのが呼び方にあらわれていて、ミキが明日香をどんどん好きになっているのがよくわかった。だからこそ、チリチリに擦り寄られても嫌がらない明日香の様子に複雑な表情を見せるミキが、「他の患者とはわたしは違う」って思っていることが伝わって切なかったし、西野の手紙朗読に取り乱す明日香に、「やめなよ」と手をかけたミキの表情、あれなんて、「格好悪いことするのやめなよ」って言っているのが如実にあらわれていて、格好ばっかりつけているミキの弱さが生々しく出ている好カットだったことである。あの表情よかったなあ。やっぱり蒼井優ちゃんてすごい。ほんとうに。
その流れで、その後、クワイエットルームで拘束される明日香に、扉越しに「おーい、おーい」と呼びかけるミキの切なさ。あれはなんかこう、野生動物が夜、どこかに仲間がいるのかと遠吠えで確かめているみたいで本当に切なくて、呼びかけているのが明日香に対してなのか自分の中の「正気」に対してなのか…みたいな、そういう切なさがすごくて、映画的にすごくいいシーンで胸に強く残った。週刊文春の映画評で誰かが「17歳のカルテの日本版」みたいなことを書いてたけど、確かに、この2人の関係性をより強く描いたことで、そういう感じは強まったのかもしれない。それでも、「おーい、おーい」のシーンは出色だったと思うんだけどね。わたしはあそこが大好きだったよ。
全体的に、この作品…って、原作含めての作品世界のことだけど、隔離した空間に限定した描き方をしてあるから、ある意味一幕物の舞台表現に近かったのかもなあと。原作のボリューム的なこともいわゆる「中篇」で、かなりミニマムな空間を描いた作品だったことに、映画を観て改めて気付いた感じだった。
いや、空間、ってことじゃないのかな、この作品、松尾さんにしては珍しく、「人」を描いたものだったような気がしていて。松尾さんの作品は全般的に「世界」とか「宇宙」とかを描いていることが多いようにわたしは思っていて、隕石ってモチーフがよく出てくることからも分かるけれども、人間にどうにかできることと、どうにもできないこととがあるのだとしたら、後者の要因によって動かされる人間の命運、みたいなものを描いていることが多い気がする。どうにもできないアレコレに翻弄されてゆく人間を、ちょっと高いところから見守っている感じ。「キレイ」みたいに明確に登場することもあるけど、ある意味での「神の視点」を感じるのはヴォネガット的とされるゆえんとでも言うべきか(なんつって。
それに対してこの作品は、もっとパーソナルな範囲のことを描いているんですよね。この作品では隕石は落ちない。そんな破天荒で絶対的な要素は登場せず、隕石のような役割を果たすのは、明日香が関わっている人たちの言葉だったり行動だったり、に集約されてゆく。極めてまっとうで、リアリズムを持った現代の人間ドラマ。そこに、松尾作品における新しい局面を見たような気持ちになって、改めてびっくりしたけど、かなり嬉しい気持ちになったりもした。
腎炎での療養に入る前につくった映画だって知っていても、なんかね、この先の松尾さんのつくるものが変わってゆく、その入り口にこの作品が位置しているのかなあと感じた部分がある。「人」に寄った形で変わってゆくのであれば、それは作品世界の矮小化だと取る人もきっといるであろうことは想像がつくのだけれども、それでも、この作品に感じたどうしようもない「やさしさ」は、大きな世界の一要素としての「人」じゃなく、ひとりひとりの人の中にこそ「世界」や「宇宙」が存在するんだ、っていうまなざしから来ていたような気がしていて。
この先の松尾さんのつくるものが楽しみでしょうがないし、そういう気持ちにしてくれたこの作品が、わたしはやっぱりすごく好きで、この先、松尾さんの描くものが少しずつ変容していったとしても、わたしはやっぱり松尾ちゃんの犬でいたいと思った、ということなんでした。愚直で申し訳ないが、愛しているのでね。
そんな訳で、月末に宮藤さんとりょうのトークショウつきの上映があるらしいので、チケット買えればまた劇場行って来ようと思いますよ。何か問題でも?

*1:いまや多分日本で一番有名な女流写真家になった人、某マヨネーズの広告でシズル感のある写真を撮り続けている人、海月書店にしおりを卸したりしつつ工芸製本の専門家として独特の活躍をしている人、あのミュージシャンのツアーグッズでコラボしたシャレオツブランドの立ち上げに関わって今は広報やってる人、等々。